田ノ浦海岸へ行って考えたこと③~美しい自然が残る上関町~

◇明治から続く人工海岸の増加
江戸初期の経済成長が宝永大地震によって100年で止まり、それから160年の低成長の中で循環型社会が築かれていきました。それでは明治維新以降はどうなったのでしょうか。
開国した日本には欧米の経済力との競争が待っていました。明治という時代は欧米の強国の生産力に追いつくために、富国強兵のスローガンのもと、産業革命による工業化へと邁進した時代です。そのことは、江戸時代の循環型社会から一転して大量生産大量消費社会へと移行していくことでもありました。経済成長に伴って工場の多くは海上輸送の便利な沿岸部に港湾とともに建設され、そのたびに自然海岸は姿を消していきます。それは先の戦争での敗戦によっても変わることなく、戦後復興の力強さの中で、新しい工場建設とその周辺の都市化とともに、日本の沿岸部は次々と人工海岸へと変貌していきました。近年では1987年の総合保養地域整備法によってリゾート開発が進められ、瀬戸内海の沿岸部も乱開発が行われました。明治からの成長経済に伴う海の埋め立ては今年に至るまで150年続いていることになります。その結果、瀬戸内海は人工海岸が圧倒的に多くなってしまいました。

〇赤い線の部分が瀬戸内海の人工海岸(環境省海辺調査1993年~1999年)


環境を差し出して得られる成長は限界に達しているのではないでしょうか。もはや海を埋め立てることによって富を得るような時代ではないように思います。◇手が付けられていないことの尊さ
長島の自然を世界遺産にしようと、長島周辺の海の生態系を調査する活動を地道にやってこられた長島の自然を守る会(現在は上関の自然を守る会に改称)という団体があります。彼らは上関の自然の特徴を3つのキーワードで説明されています。1つは「奇跡の海」。瀬戸内海の自然海岸は21.4%しか残っていないなかで、上関だけは自然海岸が75%も残っていて、環境省のレッドデータブックにあげられるような希少生物が多く繁殖していることから、「奇跡の海」だということです。
2つめは「小さな太平洋」。九州と四国の間の豊後水道から黒潮が流れ込んできて、最初に祝島や長島にぶち当たり、普通は太平洋にしかいないような貝が運ばれてきます。そのおかげで瀬戸内海にいながら太平洋の貝を見ることができます。


3つめは原発建設予定地の田ノ浦周辺には、日本海、特に北日本にしか見られない海藻が生えています。その意味で、「小さな日本海」でもあるということです。
手つかずで残された美しい自然の景観に加えて、貴重な生態系を持つという「奇跡の海」は、金銭で換算できるようなものではないと思います。このようなものを金銭で取引しようとしているのが原発建設です。祝島の人々が、田ノ浦海岸の埋め立てを強行しようとする中国電力に対して、「みんなの海です!」と抗議するのは、誰のものでもない、金銭に替えることはできないという意味が込められていると思います。
〇上関の海で見られる絶滅危惧種のカンムリウミスズメ

◇時代を先駆ける祝島の人たちの実践
祝島の人たちは、30年前に原発計画が浮上したことをきっかけに自らのまわりの豊かさを見直し、びわを栽培し、お茶を作り、ひじきを特産品としたりして、原発マネーに頼らない自立への努力を始めました。一方で、いまだに成長を目指して電気を作るために海を埋め立てようとする電力会社があります。低成長時代において、成長社会から環境循環社会へと舵を切った江戸時代の人々をかえりみるとき、今、時代を先駆けているのは電力会社ではなくて、祝島の人々ではないだろうかと思えてきます。
私はこれまでどおりの「成長」を求め続けていくと、次にまた大きな悲劇が襲ってきたとき、今度こそ根っこからすべてを持って行かれそうな不安にかられています。たぶん、江戸時代の農民たちも大自然に対する畏怖を強めながらもその後の不安を乗り越えるために、乱開発をやめ、内面的充足に努めたのではないかと思います。それは人々の生き方にかかわることでもあります。

◇東日本大震災・福島第一原発事故のあとで問われているもの
南相馬市の桜井市長が、「日本人の豊かさって何なんだい?原発事故のもとで我々が考えさせられるのは、人がいかに生くべきか、どのように生きるべきか、これを考えなければならないと思います。あるものをみつめ、家族を支え、後世に幸せを残すことが豊かさではないかと思います。」と語られたことがあります。
彼が学んだ岩手大学農学部の大先輩が宮沢賢治です。賢治は「ほんとうの幸せ」を求め続けていました。震災と原発事故によって生じた多くの問題と格闘している首長が、賢治の求めたものを今、国民に問いかけているように思います。
〇桜井勝延南相馬市長(1月の選挙で新しい市長が誕生したので今は元市長となります)