人は何で生きるのか(お話)

皆さん、こんにちは。今年の夏はいかがでしたか?
私の町では、日常のマスクはまだまだ離せませんが、花火大会の催しが3年ぶりにあったりして、嬉しい夏でした。
しかし、暑かったですね。皆さん、夏の疲れは残っていませんか。
これからは、朝夕のさわやかな空気を吸って、実りの秋の食べ物をおいしくいただき、夜には虫の声を聞いて、喜びと感謝の秋をお過ごしくださいね。

今回は、ロシア作家トルストイの民話「人は何で生きるのか」からお伝えします。
このお話は、140年前に、トルストイが53歳の時に書いた最初の民話(民衆のために書いた話)です。

まず貧しい靴職人のセミヨンが登場します。自分たちの家も土地も持たず、農家に間借りをしています。
ある日、礼拝堂の前に「白いもの」があるのに出くわします。よく見ると、身動しない裸の男でした。
かかわりあうと厄介なことになると思って、そのまま通り過ぎようとします。
その時に、心の声が聞こえます。「おい、セミヨン、いけないぞ!」すべての人に平等に与えられている良心でした。
そこで、自分のコートを着せて家に連れて帰ると、妻のマトリョーナは激怒します。
しかし、セミヨンの言葉、「マトリョーナ、お前の胸には神様がお留守かね?」の一言が、冷たく閉ざされたマトリョーナの心の扉を開けました。
心の中の良心の声に従い裸の男を助けた二人は、明日のパンを心配しつつも、胸が躍る思いがしました。

裸の男の名前は、ミハイル。それから6年間、セミヨン夫妻と一緒に暮らし、靴屋の仕事を助けて日々黙々と働きました。仕上がりも良いので評判になり、セミヨンの靴屋は収入もだんだんと増えていきました。
ミハイルがほほ笑んだのは、6年間に三度きりでした。
一度目は、セミヨンが彼を家に連れて帰った晩に、マトリョーナが夕食を出してくれた時。
二度目は、ある横柄な金持ちの男が靴を注文に来た時。
三度目は、ある女性の客が双子の女の子を連れて靴屋を訪れた時。

女性と双子が帰った後に、ミハイルはセミヨン夫妻に別れが来たと告げます。
ミハイルはあの世の天使でした。あることで神様の言葉に従わなかったため、地上に落とされました。そして、神様からの3つの問いに対する答えを
発見するために、人間にならなくてはならなかったのです。
3つの問いは次のものです。

①人の中には何があるのか?
②人に与えられていないのは何か?
③人は何で生きるのか?

ミハイルは、答えが分かる度に、ほほ笑んだのです。
ミハイルが3つの問いの答えをすべて悟った時、彼の体からまばゆい光がさし、神様から許されました。
ミハイルが、人について分かったことは、人の心の中には誰でも「良心」「神様の心」があるということ。
また、人は自分の人生を見渡す叡知を与えられていない。(だからこそ、日々学ぶことが大切だと思います)
そして、「人は何で生きるのか?」それは、「愛」によってです。

セミヨンの靴屋を訪れた女性の客が連れた双子の子は、その女性が産んだ子ではありませんでした。隣の家の夫婦が亡くなったので、その子たちが生まれた時から育てています。この女性は、「この子たちがいるから自分が生きていける」と言います。差し出す愛が、大きな喜びと生きる力になっています。

以上が、お話のおおよその内容です。

私も、私たちの生きるエネルギーは、「愛」だと思います。人は皆、生まれた時から今まで、そして今も、たくさんの愛をいただいて生きています。
また、私たちの内にある愛は、他者に向けられてこそ豊かに花開き、喜びが何倍にも大きくなり、それが「生きる力」になります。
人生を旅する船は、愛を原動力にしています。思いと言葉と行動で愛を表現し、愛を分かち合って、みんなで一緒に幸せな人生を生きていきましょう。皆さまのご健康とお幸せな毎日をお祈りしています。

最後に、トルストイの言葉を紹介します。

”個人の良心は、世間の習慣よりも優先されるべきである”
”専門家ではなく、教養人ではなく、賢者なれ”
”私たちが一生かけてすべきことは、他人との間にある壁を 愛で壊すことである”
”他人の悪ではなく、自分の悪を減らすことが 世の中を平和にする”

2022年 10月    鴨川美津惠