3月12日に1号機が水素爆発した後もプラントの危機は続きます。
《3月13日》プラントの危機続く
3号機の冷却機能が喪失し、核燃料のメルトダウンが発生、原子炉、格納容器の圧力が上昇したため、ベント開始。ベントが繰り返し行われ、格納容器の圧力は低下しました。しかし、翌日には原子炉建屋が水素爆発に至ります。
《3月14日》
◇11時01分 3号機原子炉建屋が水素爆発
◇18時22分 2号機の冷却水が不足、燃料棒が全露出、格納容器圧力上昇、ベント急ぐ
1号機、3号機と水素爆発が続く中で、最も危機的な状況を迎えたのが2号機でした。2号機は結果的には爆発はしませんでしたが、格納容器の圧力が高いまま長時間推移したため破壊の危機が現実的に迫っていたのでした。通常のベントができず、「ドライウェルベント」という高い濃度の放射性物質を含んだ蒸気が放出される方法も取られました。しかし、結局それも成功せず、格納容器の「どこか」が破損し、圧力が低下して大規模な破壊が免れることとなります。
〇当時の東電本店と1Fの現場のやり取り
《3月15日》
◇6時14分頃 2号機下部で大きな衝撃音、格納容器圧力低下、周辺の放射線量上昇。同じころ、4号機も水素爆発。
〇一連の爆発直後の福島第一原発
◇7時00分 最低限の要員(のちにフクシマ50と海外から称えられた数十人)を残し、作業員650人が福島第2原発へ避難
◇11時00分 1Fから20~30km圏内屋内退避指示(円周による指示はここで止まる。)
◇屋内退避指示
ここで、20km~30km圏内という、南相馬市の原町区にまで至る範囲に屋内退避指示が出されました。この指示は、外出せずに家の中で放射性物質の飛散が落ち着くまで退避するというものですが、現実的にはそのようなことはできないといえます。家の中の食料も3日ともたないでしょうし、買い物をするにも商店は開いていません。ですから、ほとんどの住民は屋内退避ではなく、エリア外に避難していきました。これによって、7万人いた南相馬市の人口が一時的には1万数千人にまで減ることになります。
また、放射能の影響で支援物資も届きませんでした。全国からの支援物資は届いていたのですが、それを届けるドライバーが放射能を恐れ、30km圏内に入ることができなかったからです。そのようなことがあり、残された人々の生活も危機的な状況に陥りました。そこで政府は3月25日、20km~30km圏の住民に対して、自主避難を要請することになります。
◇餓死者が出たのか?
当時野党だった自民党の福島選出の国会議員、森まさこ氏が、当時の国会で「南相馬市に餓死者が出ているのではないか」と質問したことがありました。政府はそのようなことは確認していないという回答でしたが、森氏が独自の調査をした際に「極度の栄養失調で亡くなられた方が何人もいらっしゃった」との情報を医師から得ています。こんな状況であればそのようなことがあっても不思議ではないように思います。
◇円周によって区分けされた南相馬市
結局この屋内退避指示は、政府が自主避難を要請しながらも4月22日まで漫然と継続することになります。こうして、南相馬市は20km圏内の小高区、20~30km圏内の原町区、30km圏外の鹿島区というようにほぼ行政区によって三つに区域分けがされてしまいました。これは賠償金などの差としても今後顕在化し、南相馬市民の人間関係に隠然と影響を及ぼすことになってしまいました。