平成22年:ゼムリャキ応援DVDを作成中

ゼムリャキ応援DVD

えんどうまめでは、キエフの被曝者互助組織ゼムリャキを応援するためのDVDを制作中です。

制作者は滋賀県の宮腰吉郎さん。

彼はチェルノブイリ救援中部の行っている「なのはなプロジェクト」のドキュメンタリーを撮るためにもう3年もウクライナのナロジチに通っています。

えんどうまめが通訳をお願いしている救援中部のキエフ滞在事務局竹内高明さんを通して宮腰さんと出会いました。

今年の3月にキエフに行ったときに、ゼムリャキ応援のDVDを作ることを思いつき、早速宮腰さんにお願いして引き受けていただきました。彼は、4月26日のチェルノブイリの日に間に合うようにキエフに飛ばれてビデオを回され、夏にもゼムリャキを取材してこられました。

その2回の訪問で撮影したものを1時間のDVDにまとめられました。

昨日はユースで、えんどうまめ事務局の春木さんや20代の私の子どもたちも交えて観ました。子どもたちは基礎知識がなくてもよくわかる、観やすいものだったとの評価。私はみなさんに知ってもらいこと、伝えたいことが見事にまとめられていて感動しました。


(DVD試写会。12月19日於ときわ湖畔ユースホステル)


(ガリーナさんへのインタビュー)★下をご覧ください。


(チェルノブイリの日にゼムリャキで歌ったナイチンゲール合唱団)

即興のインタビューで話されていることが、あまりに完璧で驚きました。

早くゼムリャキ応援団のみなさんにお見せしたいです。

宮腰さんはえんどうまめからの支援金が配られるクリスマスと新年を祝うイベント撮影と、ウクライナドゥルージバ代表のマクハ医師など、キエフ内のゼムリャキ支援者のインタビューのために年末からキエフに行かれます。

膨大なフィルムを時間内に収めるのは大変な作業です。

宮腰さんのような思いと能力を持った人と出会ったことに感謝しています。

来年のチェルノブイリ25周年には完成できるように頑張っています。

どうぞお楽しみにお待ちくださいね。

ゼムリャキ元副代表ガリーナさんのインタビュー

今年(2010年)5月に、えんどうまめの依頼で、ゼムリャキ応援団『ゼムリャキドゥルージバ』のためのDVD作成のためにキエフを訪問した宮腰さんが、当時、被爆者の互助組織「ゼムリャキ」副代表だったガリーナさんにインタビューした時の記録です。

(ガリーナさんは、2010年12月現在、健康状態や家庭の事情でゼムリャキの仕事は辞めておられます。インタビューは副代表だった時のものです。)

お茶を召し上がっている女性がガリーナさん

(宮腰)旦那さんは何をしておられましたか? (※宮腰注:ガリーナさんの話を少し聞いた後、録画開始したため、旦那さんの話から始まっている

(ガリーナ)夫は基本的にプリピャチではなく、チェルノブイリで働いていました。彼は食品産業に関わる学校を出ていましたから、魚加工工場で働いていました。プリピャチ川でそうした作業に従事する労働者たちがいました。彼らは川で魚を捕り、その後、その魚を加工場で加工していました。夫は加工技術者でした。プリピャチからチェルノブイリに通い、そこで働いていました。私たちがここに来たばかりの頃のことです。

私はそこで幼稚園の園長をしていました。その時が私たちの人生で最良の頃でした。まず何よりも、いいところでした! 本当に魅力的だった! 分かりますでしょうか、それがどんな素晴らしい場所だったかを。自然がどれほど素晴らしいか。これぞウクライナのポレーシェです。

ポレーシェについて詳しく知りたければ、多くの書物がありますからそれを読んでみてください。ポレーシェとは何か? それは森であり、川であり、豊かで素晴らしい植生を持っています。ウクライナで最良の地域のひとつです。

そのような所に、これまた比類なく素晴らしい、美しい、新しい街が建設されました。住民は若者が主体で、なんと、我が街の平均年齢は29歳半だったんです。実質上、ほとんどお年寄りはいませんでした。というのも、街は若く、人が住み始めたばかりでしたから。街は先進的で、上昇していく機運がありました。すばらしかった。すべてが興味深く魅力的でした。まるで歌うように生きていました。

住居問題は非常によい具合に解決されました。3人家族でしたが3部屋ある住居が与えられました。このすばらしさについては同意されると思います。ソ連ではこれが無料で提供されていたのです。街は誰もが訪れたくなるような、離れたくなくなるような街でした。

食糧事情の良さも気に入りました。例えば、キエフですらソーセージのような食料品がなく、列に並んだものですが、ここではそんな問題はありませんでした。それほどプリピャチでは食糧事情がよかったのです。肉はどうぞお好きなだけ、1ルーブル90コペイカで、という具合で、とても安いものでした。店には肉や油がいつもあって、我が街ではこうした食料品の不足はありませんでした。

プリピャチはベラルーシのすぐ近くにありました。ベラルーシは日用品に関して良質の製品があることで評判でした。当時は服やきれいな靴が欠乏状態にありましたが、望めば、それが高くはあっても、時々ではあれ、入手は可能でした。ナローヴリャという街まで行くのです。

(宮腰に向かって)多分、行ったことがおありだと思いますが、一度も行ったことがありませんか? ベラルーシにあるんですが。
他にも、なんといったかしら、プリピャチの近くにあった街の名前を忘れてしまいましたが、少なくとも、ベラルーシでは何でも購入することが可能でした。

でも、あの原発の爆発で私たちの生活は根底から覆されてしまいました。大変なことでした。このような経験をしていない人に伝えるのは不可能と思えるほど、大変なことでした。理解することは困難です。とにかく耐えるしかありませんでした。

あなたは多分自分の家に長く住んでいますね? そうですね? 考えてみてください、小さなかばん一つだけ持って、そこに少しばかり保存食を入れ、家を出たのです。というのも、三日間だけだと言われていましたからそのつもりだったのです。三日間だけだなんてとんでもない。もうほとんど家を出ようとしていた時に、息子が言いました。「ママ、だめだよ、せめて金(きん)くらいは持って行かないと!」 指輪や装飾品がありましたが、そうしたものは何も持ち出しませんでした。三日間のために何故、と思ったのです。でも、後で、わかった、持っていこう、と思い直して、家にあったお金も持ち出しました。これだけでした。

以降、私たちは戻らずに、家を閉め、立ち去りました。ちょっと想像してみてください、それがどんなふうだったのかを。このように「三日間だけ」と言われ、こうして集まって、立ち去って、終わってしまったんです!家にはもう何もない。恐ろしいことです。心に穴が空いた状態で悪夢のような出来事でした。

どこにも行く当てはありませんでしたが、クレメンチュクに姉がいて、そこに行くことにしました。当初、家族みんなそこにいましたが、その後、私は労働手帳(※竹内注:職歴などが記された手帳。年金計算の根拠などとして重要)を取りにプリピャチに戻りました。どこか他のところで仕事に就こうと思ったんです。すでに私たちはこれが三日どころの話ではないことを理解し始めていました。

そこで言われたのはこうです。
「そうはいきませんよ! あなたは共産党員でしょう? ここでは人が必要なんです。残ってここで働いてください」

(宮腰)そして、戻ったのですか?
(ガリーナ)戻りました。そうですね、多分、3週間後ぐらいだったと思います
(宮腰)3週間? 五月に?
(ガリーナ)そう、五月でした。でも、すぐに働き始めたわけではありません。さらにどこかに少しだけ行っていたと思います。でも、それは五月の終わりから、六月始めまででした。

そうして、その夏から秋にかけて働き続け、その後長い間、病に臥せっていました。そしてまた、交代要員にかり出され、病状はさらに悪化しました。

その後、病院を転々とし、退院しては入院し、というのを繰り返していました。というのも、とても病状が悪かったのです。正直に言いますが、当時はもう直る見込みがない、と思っていました。でも、いわば、神が私を生かしめた、ということなのでしょう。

夫も働きに出ていました。夫はチェルノブイリではなく、キエフ近郊のヴィシュニェヴォエで職を得ました。そこで、肉加工場のシフト勤務での主任として働きはじめました。

その後、私が働きに出た頃、たしかあれは産業地区という名前だったかと思いますが、大きな区画があり、そこで工場長として働きはじめました。そこでもまた長い間、働いていました。一方、私はその後、ゾーンでの仕事から外されました。「病気はかなり重いですよ、ですから……」と言われたんです。夫がある程度、代わりをつとめるように言われました。

私たちにキエフのアパートが与えられました。交代要員で働いたので、割り当てられたのです。働いていない人にはこうしたアパートは割り当てられず、他の街へ送られました。

キエフを望んだ人はキエフが故郷だからです。私にはキエフはなじみのない街でした。正直に言えば、当初は好きではありませんでした。学生の頃は愛してさえいました。キエフにあこがれていました。キエフといえば、夢の極みともいうべき場所でした。

プリピャチに住んで、キエフが恋しくもなりました。そして、移住させられて思いました。どうしてこのキエフを望んだのだろう、私には必要ない場所ではないか、どれほど私はプリピャチへ戻りたいと思っているのか、と。

今日はこれぐらいにしておきましょう。