田ノ浦海岸へ行って考えたこと②~美しい自然が残る上関町~

◇自然海岸線が多く残っている長島
瀬戸内海の自然海岸は1960年代に工業の振興によって沿岸に多数の工場が建設され、埋め立てによる人工海岸が増えてきました。その中でも、長島の海岸線には多くの自然海岸が残されていて、瀬戸内海でも稀有な場所だと思います。長島周辺の海が奇跡の海と呼ばれる由縁でもあります。

〇黒い線が自然海岸線。赤い線が人工海岸です(環境省 自然環境調査Web-GISより)

   ここを自然環境が残された貴重な場所として認識するか、それともこれまで通り、成長には犠牲はつきものとして、他もやっているのだからと気にしないでいるか、今、問われていると思います。
これから先も、経済成長をはかるために日本国土を埋め立てていかなければならないのかと疑問に思い、埋め立てや干拓の歴史を振り返ってみることにしました。
経済成長期に海が埋め立てられていったのは近代だけではなく、過去にも例があります。それは江戸時代初期の新田開発によるものでした。このことについて、東日本大震災の年に作られたNHKの「さかのぼり日本史」という番組の中から興味深い部分がありましたので、参考にさせていただきます。江戸時代の人々がなぜ海を埋め立てて耕作地を広げ、何をきっかけにその勢いが止まったのか、現代につながる示唆を与えてくれていますので、ご紹介したいと思います。
◇新田開発と宝永大地震
江戸時代初期のころは全国的に新田開発が盛んに行われ、瀬戸内海でも遠浅の地域では海が埋め立てられて耕作地として利用されていきました。
戦国時代が終わり、大名たちは他国へ攻めていって富を略奪するという選択肢がなくなり、自らの領地で生産性を高めなければならなくなり、また、江戸幕府からの参勤交代の要請は財政負担が大きいため、年貢収入を増やして富を蓄える必要に迫られました。そのため、諸大名たちは次々と新しく耕作地を広げていくことになります。低湿地や海を埋め立て、肥料として山の下草を刈っていく乱開発が行われました。この新田開発の成果は絶大で、収穫された米は大坂で貨幣に替えられ、大名たちは富を蓄えていきました。
江戸時代は環境循環型社会といわれていますが、埋め立て工事によって渚をつぶしていった初期の100年間は環境破壊社会だったといえるでしょう。しかし、その対価として耕地面積は江戸初期から倍増し、それにともなって1200万人だった日本の人口は、100年後には3000万人にまで増加します。社会は活気にあふれ、活発な経済活動を背景に、江戸時代の最盛期である元禄年間(1688年~1704年)を迎え、華やかな元禄文化が花開くこととなりました。
しかし、そんな好景気に冷や水を浴びせる大きな出来事が起こりました。1707年(宝永4年)の大地震と大津波です。この宝永大地震は、東日本大震災以前の有史でもっとも大きな震災をもたらしました。南海トラフ沿いを震源域とし、地震と大津波によって紀伊半島、四国沿岸が壊滅的打撃を受け、20,000人以上の死者が出たということです。津波の威力はすさまじく、大阪湾まで遡上し、大坂の町にも甚大な被害をもたらし、また、多くの新田も津波によって失われてしまいました。
この宝永の大地震以降、新田開発は勢いを失っていきます。新田開発の限界を悟った人々はもう無茶な乱開発はしなくなりました。人口増加は頭打ちとなり、それ以降の江戸時代は低成長の時代を迎えることとなります。


しかし、自然の脅威に打ちのめされた人々は、そのまま失意の底に沈んでしまったわけではありませんでした。乱開発をやめた代わりに限られた農地から多くの収穫が上げられるように創意工夫を凝らし始めます。油粕などの人工肥料を使い、二毛作、三毛作によって、綿や菜種などの商品作物の収穫高を上げていきました。こうした農業の質の転換によって1反あたり1石だった収穫高は18世紀以降倍増することになります。
農民たちの勤勉は教育にも向けられ、農村に寺子屋が浸透し、識字率が向上することによって、様々な情報を共有することが可能となりました。他地域での病の流行や米の値段の変動などを文書で知ることができるようになったということです。また、村の取り決めも文書化できるようになり、教育水準の向上は村の自治を高めることにもなりました。本の出版点数も飛躍的に伸び、一般の農家でも多数の蔵書が見られたといいます。支配者だけではなく、民間人の蔵書が増える社会が出現することになりました。経済成長が望めない中でも農民たちは豊かになる努力を怠らず、身の丈にあった豊かさを求め、知識を磨き、心を陶冶していきます。それが後の成熟した江戸時代の基盤となっていったのでした。

◇これまでどおりでいいとは思えない
宝永大地震から明治維新に至るまでの約160年間、江戸幕府は財政の赤字削減や、経済成長を目指して何度となく改革を行ってきました。それにもかかわらず、結局低成長のまま幕末へ至ります。その一方で、低成長のもとでも人々は創意工夫を怠らず、環境破壊型成長社会から環境循環型社会へと変貌を遂げていきます。こうしたことに注目するとき、大きな災害は、社会の質を変える契機となる可能性を秘めているといえます。
東日本大震災、福島第一原発事故の後、私たちの生き方がこれまでどおりでいいとは思えません。このことを少し考えてみたいと思います。