〇二つのテーマの答え
冒頭に二つのテーマを掲げました。その一つ、ウクライナが第二次世界大戦でどのような被害を受けたかということは、以上記したように凄惨なものであったということがわかりました。もう一つのテーマについて述べます。日本人にとってソ連軍を構成していたロシア人やウクライナ人を民族として憎むべき相手なのかという問いです。
ヤルタ会談でチャーチル、ルーズベルトと約束したとおり、スターリンはドイツ降伏から3か月後に満州や北方領土に侵攻します。ソ連軍が日ソ不可侵条約を破って満州に侵攻したのは1945年8月9日、長崎へ原爆が投下された日でした。満州の守備にあたっていた日本の関東軍は、かなりの兵力や装備が南方戦線に引き抜かれていたため弱体化しており、満州居留邦人のうち壮年以上の男子も徴兵されました。これは「根こそぎ動員」と呼ばれ、充分な訓練を行う余裕のない状態でした。圧倒的な戦力で侵攻したソ連軍はまたたくまに満州を制圧し、日本兵の多くはシベリアへ労働力として移送され、引き揚げができない残留邦人はソ連兵の略奪、暴行などにより塗炭の苦しみを経験しました。そこから奇跡的に引揚げが実現したものの、ソ連兵が行った蛮行を許せない気持ちを多くの日本人が持っています。その気持ちは十分理解できますし、私自身も怒りを覚えます。しかし、この本を読んで、そのような感情とは別に、憎むべき相手はソ連兵の背後に存在する巨悪、不完全な人間の弱点を利用し、人間の理性のタガを外すものの存在ではないかと思います。
満州に侵攻したソ連軍はどのような兵士たちだったでしょうか。彼らは独ソ戦で絶滅戦争を体験し、ドイツで略奪、暴行、殺戮の限りをつくした後、その興奮も落ち着かないままシベリア鉄道で満州へ移送されてきました。彼らの戦争観は相手を仮借なく滅ぼすことであり、民間人であろうと略奪暴行は正当化されるという独ソ戦の思考のまま満州に侵攻、「良心」が著しく欠落したままの状態だったと思います。彼らが残虐だったのはモンゴルの血を引くスラブ人だからでしょうか。しかし、残虐性はゲルマン人の優秀さを掲げていたナチスドイツも同じなので、残虐性で民族の評価はできないと思います。では人々を残虐に向かわせる要因は何なのか、筆者の述べる「世界観戦争」という言葉に着目し、冒頭の文章を再び引用します。
「独ソ戦を歴史的に際立たせているのは、そのスケールの大きさだけではない。独ソともに、互いを妥協の余地のない、滅ぼされるべき敵とみなすイデオロギーを戦争遂行の根幹に据え、それがために残酷な闘争を徹底的に遂行した点にこの戦争の本質がある。」
先に侵略したのはドイツでした。ソ連国内の食料や資源を収奪することが戦争目的でした。これは日本が東南アジアに侵攻した目的と似ていて、誤解を恐れずに言えば「自存自衛」のためという「合理性」はありました。軍事目的を達成すれば戦闘を終了し、政治的な交渉に入るというのが、「通常の戦争」となります。しかし、ヒトラーはそれで満足せず、共産主義は滅ぼすべき敵だというイデオロギーと優秀なゲルマン民族の生存のためにスラブ民族やユダヤ人を従わせるという人種主義的な目的もあったため、無意味な殺戮を繰り返すことになります。この「イデオロギー」=世界観が戦争目的に加わると、相手を滅亡させてもよいという、仮借なき戦いとなるのではないかと思います。人種、思想、宗教などの違いなど、平和時には抑制されていたものが、戦時になると一気に表出し、戦闘への強い動機付けにされていく。一方のソ連は巨大な外敵が侵略してきたことで、共産主義とナショナリズムが融合し、スターリンが「大祖国戦争」と名付けた通り戦意が高揚しました。ドイツ軍が残虐であればあるほど「報復は神聖なり」として、合わせ鏡のようにソ連軍もそれ以上の残虐行為で対抗します。満州に侵攻したのはこのようなソ連軍でした。ロシア人だから、スラブ民族だから、共産主義者だからあのような蛮行を行ったのだということとは違うように思います。どのような民族であっても「絶滅戦争」を継続中の軍隊の軍律は乱れ、正当化された「復讐」は仮借なき暴虐へと発展するということだと思います。
私たちはここから何を学ぶべきでしょうか。「戦争はしてはならない」というのは、ほとんどの庶民はそう願っていると思います。まずは戦争を抑止することが第一です。しかし、庶民が平和を願っていても、巨大利権をもつ顔の見えない一部の権力者がその利権拡大のために「大義」を掲げて戦争を惹起するかもしれません。そのために、思想、民族、歴史認識、「復讐心」などが利用され、仮借なき戦闘行為へとエスカレートさせていくようなことがあってはなりません。
世界は今情報通信網が発達し、人々がアクセスできる情報量が格段に増えています。その情報の洪水の中で、「邪悪な目」によって扇動されることのないようにしておきたいものです。戦争とは直接関係なさそうなことであっても、政府や大企業、メディアが伝えることに違和感はないか、無理はないかなど、自分で考えてみることの大切さを、コロナ禍の緊急事態とされている今、特に感じています。