終戦の日に思う⑤

〇スターリングラード攻防戦
 1941年12月、日本が真珠湾攻撃を行って、世界大戦に拡大したころ、ソ連軍は反撃するも、スターリンの命じる総反撃はことごとく失敗、一進一退の状況が続きました。ここでヒトラーは自ら陸軍総司令官の地位について、軍事的合理性に背く指令を乱発し、どこでも死守命令を出し、戦術的撤退など許さなくなりました。
1942年、消耗の激しいドイツ軍は、体勢を立て直し、次の目標を計画します。日本の参戦によって米英軍が極東に牽制されているうちにソ連を打倒するのが至上命題でした。ヒトラーはスターリングラード(現ヴォルゴグラード)侵攻を決めます。スターリンという名を冠する都市を制圧することの精神的効果と、南部のアゼルバイジャンなどの油田を獲得する狙いがありました。

 1942年8月23日、ドイツ空軍は人口60万人のスターリングラードを空爆し、市街地は瓦礫の山と化し、ヒトラーは完全占領を命じますが、10月以降ソ連軍は反撃に転じ、有能な戦術家を用いて、ドイツ軍を追い込んで行きました。スターリングラード攻防戦のドイツ軍敗北は独ソ戦の転換点と言われています。
 1943年1月、ドイツ軍に打撃を与えたソ連軍は、ウクライナ奪還のチャンスとして攻勢にでて、8月3日、大兵力で総攻撃を開始しました。世界観戦争を展開していたヒトラーにとっては戦術的撤退などありえず、ウクライナ死守を命じ、ドイツ軍は大損害を被りました。このままでは東部戦力が全滅するという状況になって、ようやく撤退を許し、巨大なドイツ軍隊のドニエプル撤退が実行されます。この際にヒトラーは「焦土作戦」を命じました。ソ連軍の進撃を阻止するためにドニエプル川を渡ることを可能にするものは橋だけではなく施設や営宿所、ソ連軍の補給に役立つ食料や機械などすべて破壊するか徴発されました。物資だけではなく、当該住民も徴兵または労働力として強制移送され、その数数十万人にのぼり、さらに家畜数万頭も収奪されました。このことはのちの戦犯裁判で重要犯罪として取り上げられています。ウクライナの人々はドイツ軍が侵攻してきた時だけでなく撤退するときも大きな被害を受けていたのでした。このこともウクライナの人々に大きなトラウマを残したのではないかと思います。

〇ドイツの敗北
 このようなお互いが絶滅するまで戦闘行為をやめない戦争は終戦交渉が成り立たないものでした。ドイツ軍は戦況の悪化が著しくなり、外務大臣のリッベントロップも枢軸国イタリアのムッソリーニも和平工作を試みましたが、ヒトラーは独ソ戦を政治的に解決するつもりはありませんでした。1943年7月29日、駐独日本大使大島浩と会談したヒトラーは、「ウクライナを割譲するならば和平に応じてもよいが、とうていスターリンにはその用意はないだろう。」と語っています。
 1944年はドイツの敗北が決定的になります。1月にレニングラードを解放したソ連軍は、ちょうど独ソ戦開始から3年目にあたる6月22日、バグラチオン作戦という兵力125万4300人の総攻撃を開始します。ソ連領内に入っていたドイツ軍33万を押し出し、ポーランドへ進撃しました。これでドイツ軍の敗北は決定的となり、ソ連軍はついにドイツ領内まで侵攻します。前線のソ連兵の残虐性はドイツ兵に引けを取るものではありませんでした。「報復は正義」とし、敵意と復讐心のままに軍人ばかりか、民間人に対しても略奪、暴行、殺戮を繰り広げます。ソ連軍の政治教育機関も「報復は正義であり神聖ですらある」として、そうした行為を抑制どころか煽りました。そうして、ソ連軍の行く先々で地獄絵図が展開されるようになります。あるソ連の青年将校が証言しています。「女たち、母親やその子たちが、道路の左右に横たわっていた。それぞれの前に、ズボンを下げた兵隊の群れが騒々しく立っていた。」「血を流し、意識を失った女たちを一か所に寄せ集めた。そして、わが兵士たちは、子を守ろうとする女たちを撃ち殺した。」
 満州を想起させるような証言です。そのような中、かかる蛮行を恐れて多数の市民が集団自決しました。これも沖縄戦を想起させます。軍律が効かなくなった兵士が無防備な市民に対してやりたい放題になってくると、もはや戦争ではなく、地獄です。
1945年2月、勝利を確信したスターリンはクリミア半島ヤルタでイギリスのチャーチル、アメリカのルーズベルトと会談し、戦後処理についての協定を結びました。ドイツを英米仏ソで分割することや、ドイツ降伏90日後にソ連対日参戦などが決められます。1945年4月20日、ソ連軍がベルリンに突入、4月30日、「なお闘争を継続せよ」と命じたヒトラーは自決し、5月2日、ようやくベルリンのドイツ守備隊が降伏して、戦闘は終結しました。