30年前を振り返ってみました

◇ベルリンの壁崩壊

 今から30年前の1989年11月9日、戦後米ソ冷戦の象徴となっていたベルリンの壁が崩壊しました。多くのベルリン市民がハンマーなどで壁を叩き壊す様子はテレビで放映され、世界中に新しい時代の到来が知らされました。またこの前後の時期に東ヨーロッパで次々と共産党政権が倒され、民主化が実現しました。これは「東欧革命」と呼ばれました。
 そもそも、この壁が築かれたのはこの時から28年遡った1961年8月のことでした。それは、第二次世界大戦が終わった1945年から16年を経過した頃でもありました。

 11月9日はえんどうまめの代表の石川さんのお誕生日なので、誕生日記念にベルリンの壁崩壊にちなんだ話題ができたらと思い、先日のえんどうまめの例会で1時間くらいいただいて、お集りのみなさんにお話しました。書き言葉にすると読みづらいと思いますけれど、30年前のご自身のことやまわりのことを思い出しながら興味のある部分だけでもお読みになっていただけたらと思います。(出典はほとんどWikipediaです。)by リグビダートル

◇第二次世界大戦終了と冷戦下の東ヨーロッパ

 1945年、第2次世界大戦が終わり、世界はソ連を盟主とする社会主義・共産主義国と、アメリカを盟主とする自由主義・資本主義国に分かれて対立する東西冷戦時代となりました。ヨーロッパでは、敗戦国のドイツが東西に分割され、ドイツより東側のヨーロッパ諸国では共産党が政権を握り、ソ連の統制の下、共産主義国家が誕生しました。ポーランド、チェコスロバキア、ハンガリーなどは共産主義体制を望んでいたわけではなかったのですが、圧倒的な軍事力を背景にしたソ連の影響のもとで、共産党に警察権力などの主要内務を握られる形で独裁政権が立てられました。とはいえ、これらの国々はウクライナやベラルーシのように、ソ連邦に完全に組み込まれていたわけではなく、一応独立国家であったことから、機会あれば共産主義体制を変質、または倒そうとする独自の動きがありました。ポーランドのポズナニ暴動、ハンガリー動乱、チェコスロバキアのプラハの春などです。しかし、このような共産主義体制を変革し、言論やデモ、集会の自由を求めた東欧の人々の要求はソ連軍を中心とした軍事力によって潰されてしまいました。
 ベルリンの壁崩壊への長い道のりの端緒ともいえるこれらの事件がどのように発生し、どう終結したかを簡単に振り返ってみます。

◇スターリン批判とポズナニ暴動(1956年6月)

 1953年、ソ連の指導者だったスターリンが死亡すると、その後継者として、フルシチョフがソ連第一書記の権力の座に着きました。彼はスターリンの行き過ぎた独裁、外国に対する敵視政策、民族虐殺等を批判しました。そして対外的には「平和共存路線」を発表します。このスターリン批判による共産主義体制の見直しは、国内外へ大きな影響を及ぼしました。特に東欧の国々では、ソ連共産党による統制が弱まったことから、「自由」を求める動きが始まりました。

 1956年6月、ポーランド西部のポズナニという工業都市で、労働者たちが待遇改善を求めてデモを行い、これに市民が合流して大規模な暴動にまで発展しました。この動きの背景に外国勢力の存在を感じたフルシチョフは、ポーランド政府に対して弾圧を命じ、ソ連軍を国境付近へ移動させて圧力をかけてきました。ソ連軍による介入を許してしまうことは国家の主権を大きく失うことになるため、当時のポーランド共産党第一書記のゴムウカは、市民側との交渉で妥協点を見出して暴動を収め、一方ではソ連とも粘り強く交渉を重ねて、ソ連軍の介入を阻止しました。ソ連軍が迫ってくるという危機の中にあって、市民の要求がある程度受け入れられ、結果的にソ連軍の介入もなかったことから、この反ソ暴動は一定の政治的成果を収めたことになりました。
 このポーランドの動きをみていたハンガリーでも、反ソ暴動が発生します。しかし、それはポーランドのようにはならず、ソ連軍の介入を招いて悲惨な結果となってしまいました。

◇ハンガリー動乱(1956年10月)

 1956年10月、ハンガリーの首都ブタペストで労働者や市民、学生らが政治改革を求めてデモを行うと、これが全国に広がって大規模なゼネストに発展しました。事態を収拾するために首相に就任したナジ=イムレは、複数政党制の導入を図り、ソ連と東欧諸国で結成した軍事同盟「ワルシャワ条約機構」からの脱退、ハンガリーの中立国化などを表明しましたが、ソ連はそれを許さず軍事介入に踏み切り、約2000台の戦車でブタペストを蹂躙し、数千人の市民が死亡、20万人の市民が亡命するという悲惨な結果となりました。ナジ首相はソ連軍に捕らえられて処刑されてしまいました。
 ポーランドのポズナニ暴動では、指導者であるゴムウカがワルシャワ条約機構からの脱退はしないと表明したことによって、ソ連軍の軍事介入を阻止しました。一方、ハンガリー動乱において、ナジ首相は、政治上のソ連からの独立とワルシャワ条約機構からの脱退をかたくなに主張したため交渉が行き詰まり、ソ連軍の介入を招いてしまいました。
 政治や交渉事は複雑で、両者の違いを単純に比較することはできません。しかし、後年、ポーランドがベルリンの壁崩壊の端緒となる民主化を東欧でいち早く実現したことをみると、まずは「生き残る」ことを最優先にしたポーランドのしたたかさを感じます。

◇ベルリンの壁建設(1961年8月)

 ハンガリー動乱をソ連の軍事力で鎮圧したことは、フルシチョフの「平和共存」路線を停滞させることになってしまいました。ソ連共産党に逆らえば戦車によってつぶされることがわかった東欧の市民に警戒感が高まります。このことは特に東ドイツのベルリン市において顕著な動きとなってきました。当時のベルリン市内は人々の通行は自由で、東ベルリンと西ベルリンの間では通勤や買い物など日常的に人々は往来していました。しかし、ポズナニ暴動、ハンガリー動乱のあと、共産主義体制を嫌う人々が東ベルリンから西ベルリンへと脱出しはじめ、その動きが止まらなくなってしまいました。このことに危機感を覚えた東ドイツ政府は1961年8月、東ベルリン市民の出国を禁じ、国境にバリケードを築き、壁の建設を始めました。これ以降、東ベルリンから西ベルリンへの移動は命がけの脱出となりました。ベルリンの壁を越えようとして国境警備兵に銃殺などされて命を失った人たちは200人以上に上ります。

◇プラハの春/チェコ事件(1968年)

 1956年にポズナニ暴動、ハンガリー動乱が発生してポーランドやハンガリーの市民が大規模なデモ行動を起こしていた時、両国に挟まれているチェコスロバキアではそのような動きは起きませんでした。当時のチェコスロバキアは進んだ工業国であり、チェコ製の武器がソ連に輸出され、人々の生活は比較的豊かだったので、デモを起こす動機付けが薄かったのだと言えます。しかし、それからチェコスロバキアでも長い間の官僚支配による社会主義経済が行き詰まりを見せ始め、不況や言論抑制を克服するための政治改革に迫られるようになってきました。そんな中、1968年に国民の期待を集めて共産党第一書記に就任したのがドプチェクでした。彼は「人間の顔をした社会主義」を唱え、国民の自由な政治参加、言論の自由、検閲の禁止、外国旅行の自由など次々と民主化政策を打ち出していきました。この急進的な動きは1961年の春に進んだことから「プラハの春」とも呼ばれています。
 この民主化政策によって言論の自由が活発に行われ、新しい政党の結成も始まり、多くの知識人たちはもはや旧体制路線には戻れないとドプチェク政権を強く支持しました。しかし、夏になったころ、これらの民主化政策は社会主義を逸脱するものとして、ソ連のブレジネフ政権が軍事介入を行って民主化運動を弾圧し、チェコスロバキアでの民主化はつぶされてしまいました。

◇「ブレジネフ・ドクトリン」(制限主権論)

 ソ連ではフルシチョフによるスターリン批判後の平和共存路線が模索されていたのですが、1964年にブレジネフがソ連の政権に着いた時からはその路線から離れていました。彼はチェコスロバキアに軍事介入したことを正当化するために「ブレジネフ・ドクトリン」(制限主権論)を発表します。その内容は、「共産主義圏全体の利益のためには、一国の主権は制限されてもやむを得ない。」というものでした。これに逆らう国はチェコスロバキアのように攻め込むという強い姿勢を示し、ソ連を盟主とする共産主義圏の統制を強化することが狙いでした。実際、ブレジネフがチェコスロバキアへ侵攻する際にワルシャワ条約機構軍として呼び掛けても、これに加盟している国の中には出兵を拒否する国もあり、共産主義圏の統制強化の必要に迫られていたのでした。

◇中ソ対立と国境紛争

 このソ連の強い姿勢に対して最も危機感を持ったのは毛沢東の中国でした。同じ共産主義国でありながら、革命の戦略の違いからソ連と対立していました。毛沢東はスターリン主義を継承する立場から、フルシチョフのスターリン批判から始まった平和共存路線を、帝国主義への屈伏であるとして受け入れず、フルシチョフらを修正主義者と激しく批難していました。また長大な中ソ国境においては国境線がはっきりしない場所があり、そこをめぐって軍事衝突も起きました。1969年3月、中国東北部と沿海州の間に流れるウスリー川にあるダマンスキー島の帰属をめぐって両者が武力衝突をはじまり、毛沢東がソ連を最重要の敵とみなすほど中ソ関係は悪化し、中ソ間の本格的な戦争が危惧されるようになりました。ソ連に対して圧倒的に不利な軍事力の前に、毛沢東が考えたことは、アメリカを味方につけることでした。

◇米中接近とニクソン米大統領の訪中(1972年2月21日)

 ソ連を「修正主義」と批判していた中国は、一方でアメリカに対しても「帝国主義」と批判し、両国とは対立していました。しかし、ソ連がプラハへ侵攻し、自由化の動きを力づくで抑え込み、共産圏の盟主としての引き締めを図ろうとしたことは中国にとって脅威でした。このときから、中国は主敵をソ連と考えるようになり、一方でアメリカを味方につけようと動きます。これは泥沼のベトナム戦争から引き上げたいアメリカにとっても都合の良いものでした。ニクソン大統領はアメリカ軍のベトナムからの名誉ある撤退を選挙公約に掲げ、その撤退の仕方を模索していました。ベトナムからの撤退がアメリカによる新たな国際秩序の構築という形で進められ、中国をその重要なパートナーとすることでアメリカの威信を守ろうとしました。アメリカにとって、中ソ戦争で中国が敗れることはアメリカの国益に反することなり、中国との友好関係を築く動機はアメリカ側にもありました。1972年2月、ニクソン大統領の訪中をきっかけに米中関係は深まっていくことになり、1979年にはカーター大統領のもとで、米中の国交樹立が実現します。

◇デタント(緊張緩和)の動き

 このような米中の動きは、ソ連にとって必ずしも不都合なことではありませんでした。ソ連にとっても対中戦争に力を割くことができなくなっていたからです。ブレジネフ政権下で特権階級化した共産党官僚による経済運営は計画通りにいかず、ソ連自体も変革を迫られていました。アメリカも長引くベトナム戦争によって経済的に行き詰まり、軍備拡張に力を入れることが困難となっていました。ここに米ソの軍縮へ向けての共通認識が生まれ、デタント(緊張緩和)の交渉が行われ、軍拡競争に歯止めがかけられました。この状況は1960年代終わりから始まって、1979年のソ連によるアフガニスタン侵攻で終わることになります。
 せっかく続いていた米ソの緊張緩和状態が再び緊張状態に陥ってしまう原因の一つがイラン革命でした。この革命はアメリカにとってもソ連にとっても驚異的なものでした。

◇イラン革命(1978年1月)

 ベルリンの壁が建築された1961年頃、イランではパーレビ朝による「白色革命」が始まっていました。革命とは本来、社会の下層の民衆による社会変革を指しますが、この「白色革命」は逆で、皇帝が独裁体制を強め、強権を持って上から社会の近代化を目指すというものでした。パーレビ国王はアメリカの協力の下、国内産業の近代化を図ろうとしましたが、国際石油資本に従属することになって、富が偏在し、貧富の差が大きくなってしまいました。これによってパーレビ国王は国民の支持を失い、1978年のイラン革命で失脚しました。
 イラン革命は、米ソ冷戦下の世界であってもどちらの陣営からも影響を受けない民衆の革命でした。パーレビ国王による皇帝政治が倒された後、革命指導者のホメイニ師の指導によってイラン=イスラム共和国が樹立され法学者が政治を統治しイスラム法が絶対とされ、それまで受けていたアメリカ文化の影響は完全に否定されていきました。
 パーレビ国王時代には強いつながりがあったアメリカはイラン国内で足場を失い、国際石油資本も石油資源を置いたまま撤退したので、イランは石油を国有化しました。また、隣国のイラクでは、イラン革命を主導したイスラム教シーア派が多数を占めていたため革命の影響を危惧してイランに戦争を仕掛けました。この時はアメリカもソ連もイラクを援助しています。イランは最初の段階で不利な戦況に置かれましたが途中から粘り強く抵抗しイラクを押し戻し、イラン・イラク戦争は長期化しました。

◇ソ連のアフガニスタン侵攻(1979年12月24日)

 ソ連にとってもイラン革命は脅威でした。イランの隣国のアフガニスタンにはイスラム教徒が多く、イラン革命の成功で勢いをつけ、アフガニスタンの共産党政権を打倒するために動き始めました。アフガニスタンに非共産主義国家のイスラム教国が誕生するようになればその影響はソ連国内のイスラム教徒にも及んでしまいます。アフガニスタンでイスラム教が活発化し、共産主義政権が打倒されるようなことは、ソ連にとって絶対に避けたいところです。そこで、1979年、ブレジネフは、アフガニスタン政府からの要請だとしてソ連軍をアフガニスタンへと向かわせました。このソ連軍によるアフガニスタン侵攻に対して、アメリカをはじめとした西側諸国は批難の声を上げ、翌年のモスクワオリンピックの参加をボイコットしました。こうして米ソのデタント(緊張緩和)はこの年を持って終わりを告げ、新冷戦と呼ばれる状態が始まることとなりました。

◇新冷戦の始まりとヨーロッパ核戦争の脅威

 1979年のソ連軍によるアフガニスタン侵攻によってデタント(緊張緩和)が終わり、新冷戦時代が始まりました。1981年にはアメリカ大統領にドナルド・レーガンが就任、ソ連敵視政策を強めていきます。レーガンは戦略防衛構想(SDI)により宇宙への軍拡を発表、ソ連はそれを受けて態度を硬化し、ヨーロッパにSS20ミサイルを配備、アメリカもパーシングⅡミサイルを配備して、ヨーロッパは核戦争の脅威が高まってきました。再び米ソが緊張緩和の時を迎えるのは1985年のゴルバチョフの登場まで待つことになりますが、この時点ではいつまでこの緊張状態が続くのか誰にもわかりませんでした。
 しかし、時代は少しずつ動いていきます。ソ連が1979年にアフガニスタンへ戦力を投入しているとき、ポーランドで民主化の動きが始まりました。自主管理労組「連帯」が結成されたのでした。

◇自主管理労組「連帯」結成(1980年9月17日)

 「自主管理」とは、共産党の支配、管理を受けないという意味であり、社会主義国で初めて党から独立した労働運動を始めたのが自主管理労組「連帯」でした。最初は1980年、共産党政府が行った物価値上げに反対して結成され、グダニスク造船所の電気技師だったワレサが初代議長となりました。連帯の活動は全国に広がり、政府も無視できなくなって、連帯は政府に承認され、賃金労働条件の改善を勝ち取っていきました。しかし、これ以上の勢力拡大を恐れたヤルゼルスキ政権は1981年に戒厳令を出し、ワレサら指導者を逮捕、連帯は非合法化されてしまいました。そのためしばらくは活動できなくなりました。
戒厳令を出して連帯の活動を停止させたヤルゼルスキは、のちに「ソ連軍の介入を防ぐための措置だった。」と述べています。当時はまだ「主権制限論」を唱えるブレジネフが健在で、過去のハンガリー動乱、プラハの春のように、民主化をつぶすために戦車が侵攻してくる可能性はありました。ヤルゼルスキの判断はポーランド人にとっても評価が分かれるところです。
 その後連帯は、1988年にふたたび活動を開始、ポーランドを民主化し、ベルリンの壁崩壊の原動力となりました。

◇ヨハネ・パウロ2世の影響力

 ポーランドは国民の92%がカトリック教徒という国で、中世から熱心な信者が多いことで知られています。ポーランドは亡国と復興の繰り返しという厳しい歴史があり、そんな中で培われた精神力は、ソ連に統制された共産党の独裁政権で簡単につぶされるようなものではなかったのかもしれません。そんなポーランド国民にとって、1978年にローマ教皇に選出された、ポーランド出身のヨハネ・パウロ2世は精神的にとても力強い支えとなったことでしょう。第二次世界大戦時に、祖国ポーランドが焦土となった体験から戦争に対して一貫して反対を貫き、また、共産党独裁政権に対する民主化運動を支持しました。連帯のワレサを逮捕し、戒厳令を敷いたヤルゼルスキに対して、「人間の顔をした社会主義」を実現するように強く求め、信心深いカトリック信者であるヤルゼルスキもまたこの言葉によってその後の方向転換がはっきりしたと話しています。
 ヨハネ・パウロ2世はベルリンの壁崩壊をもたらした最も影響力のある一人であったといえるでしょう。

◇ミハイル・ゴルバチョフ登場(1985年3月11日)

 1982年11月、ソ連最高指導者のブレジネフが死去しました。1964年にフルシチョフから政権を継いで18年の長きにわたった権力者のもとで、ソ連は共産党幹部が特権階級となり、経済は停滞、やがてブレジネフの時代は「沈滞の時代」と揶揄されるようになっていました。ブレジネフの後継者としてユーリ・アンドロポフが書記長に就任しましたが、1984年に急死、そのあとを受けた高齢のコンスタンティン・チェルネンコも1985年に急死してしまいました。指導者が相次いで死亡することに危機感を覚えた共産党は、政治局の中でもっとも若い人材を登用することにしました。それがミハイル・ゴルバチョフでした。当時54歳、若いソ連指導者の登場に、アメリカのレーガン大統領もイギリスのサッチャー首相も一緒に仕事ができる相手として彼への評価は高かったといいます。
 ゴルバチョフはさっそく「ペレストロイカ」(改革)、「グラスノスチ」(情報公開)を断行、特に「グラスノスチ」による表現の自由は国内政治や外交問題についての言論を活発にさせ、ついにはアフガニスタンからの撤退が実現することになりました。ゴルバチョフはこの時の功績により、ノーベル平和賞を受賞しています。外交上の活躍については、彼をよく理解していたシュワルナゼ外相の功績も大きかったといえます。シュワルナゼ外相はベルリンの壁崩壊後の東西ドイツ統一のために最も働いた一人でした。
 ゴルバチョフは、ブレジネフが提唱した「制限主権論」を放棄し、各国の改革に「制限」はなく、その国のやり方で進めてよいとしました。ソ連共産党の統制から解放された東ヨーロッパ諸国は念願の民主化を進めていくことができるようになりました。

 こんな時期、日本の地方の小さな町で、お母さんたちが立ちあげたグループがありました。「平和を願う草の根グループ」えんどうまめです。

◇平和を願う草の根グループえんどうまめ結成(1985年9月)

 そのころ、グループの呼びかけ人の石川さんはまだ小さな子どもを抱える若いお母さんでした。普通のお母さんたちが、自分たちの子どもたちの時代が平和であるように願って、学び行動しよう始めました。かかわり方もそれぞれ自由としたうえで様々な活動に取り組んできました。今はこうしてホームページを立ち上げて情報を発信できますが、当時は印刷物を郵送して情報共有をしていました。
 「平和を願う」と言葉にしてみたとき、それが意識の上に乗せられて、世の中で起こっていることをより深く理解できるのかもしれません。特に日本人として平和を意識するときは、広島、長崎の被爆体験を抜きにすることはできないと思います。そんな平和を願う思いが強く発露されるような出来事が翌年起こりました。チェルノブイリ原発事故です。えんどうまめはそれからチェルノブイリにもかかわり、現在に至っています。

◇チェルノブイリ原発事故(1986年4月26日)

 当時ソ連邦にあったウクライナ・ソビエト社会主義共和国のチェルノブイリ原子力発電所4号炉で原子力事故史上最悪の爆発事故がありました。原子力事象評価尺度では深刻な事故を示すレベル7と評価されました。原子炉の停止作業中に事故が起き、爆発とその後の火災で大量の放射性物質が放出され深刻な汚染がもたらされました。高濃度に汚染された周辺地域は居住不能になり、約16万人が移住を余儀なくされました。原子力発電所の事故処理には膨大な資金と長い年月がかかるため、その責任を負う国家にとっては負担が大きく、東欧革命とそれに続くソ連の崩壊は、このチェルノブイリ原発事故が大きな要因の一つであったともいわれています。

◇INF(中距離核戦略全廃条約)調印 (1987年12月8日)

 1985年にゴルバチョフがソ連書記長に就任後、軍縮も重要な課題でした。ソ連が1979年にアフガニスタンに侵攻後、米ソの緊張状態は継続したままでした。ゴルバチョフ書記長とレーガン大統領は1987年12月8日、INF中距離核戦略全廃条約に調印し、軍縮を進めました。

◇ポーランドの民主化(1989年9月)

 東欧の国々は共産党のみが政権を握っていて、一般国民は選挙によって政権を決める権利を認められていませんでした。新しい政党を作るための政治活動はできず、そのための言論の自由や、集会の自由もありませんでした。逆に政府は検閲をしたり、人々の行動を監視したりして、人々の自由を制限するような社会ができていました。「民主化」とは、これらの自由を獲得するための動きのことです。当時の東欧の人々にとってはなんとしても成し遂げなければならないことでした。その中で、いち早く民主化を進めたのがポーランドでした。
 ポーランドでは1989年6月に東欧で初めての普通選挙が行われ、全選挙区で共産党が敗北してしまいました。共産党は政権を降り、代わりに非共産党政権が誕生することになりました。9月にヤルゼルスキ大統領、マゾビエツキ首相によって新政権が確立、国名はポーランド人民共和国からポーランド共和国へと移行しました。その後も議会選挙、大統領選挙が行われ、1990年にはワレサが大統領に就任するなど、民主主義が定着していきました。

◇ハンガリーの民主化(1989年10月18日)

 1989年5月2日、ハンガリーのメーネト内閣は、「財政上の理由」により、ハンガリー・オーストリア間の鉄条網の維持を放棄すると発表、その撤去に着手しました。10月には一党独裁が否定され政党活動が自由化されました。これらはすべて「一滴の血も流れず一発の銃声も聞かれず」平和的手段で実行されました。

◇ベルリンの壁崩壊(1989年11月9日)

 ポーランドやハンガリーで民主化が進んでいた一方で、東ドイツのホーネッカー書記長は民主化に否定的でした。しかし、東ドイツの人々がポーランドやハンガリー経由で西ドイツへと移動することが容易になり、もはやベルリンの壁の意味がなくなってしまいました。1989年10月、国民の支持が得られなくなったホーネッカーが失脚、11月9日、東ドイツ政府はベルリンの壁を含むすべての国境通過点での出国がただちに緩和されるという閣議決定をし、翌日10日から壁の撤去作業が始まりました。1961年に建設され、東西冷戦の象徴とされたベルリンの壁は28年目にようやく取り壊され、翌年の1990年、東西ドイツが統一を果たすこととなりました。

◇チェコスロバキアの民主化/ビロード革命(1989年11月17日)

 ポーランドやハンガリーで民主化運動が進められていたころ、チェコスロバキアでも同様の動きがありました。しかし、当時の共産党ヤケシュ政権は改革に動こうとしませんでした。11月9日にベルリンの壁が崩壊したニュースが流されると、市民の活動は活発になり、連日30万人規模のデモが行われ、ついにヤケシュをはじめ、共産党幹部が辞任し、新しい体制へと移行しました。大衆行動が流血の惨事を回避しながら共産党政権を打倒し民主化を実現させたチェコスロバキアの革命がビロードのように滑らかだったとして、ビロード革命とも呼ばれています。

◇ルーマニア革命/東欧唯一の流血革命(1989年12月26日)
 1989年の東欧革命はほとんど流血の惨事はなく共産党政権が倒されていきました。しかし、ルーマニアでの革命は、軍や治安部隊が出動し、800人以上の犠牲者を出してしまいました。当時のルーマニアは他の東欧諸国と違って特殊な政治体制だったことにも起因しているようです。

 ルーマニアは黒海に油田を持っているため、経済的にはソ連に従属することなく自立することができました。そのため、他国の影響を排除しながら独自の路線を進むことになります。ニコラエ・チャウシェスクがルーマニア共産党書記長に就任してからは、国内の求心力が高まり、「チャウシェスク王朝」といわれる個人独裁体制を確立しました。このような体制づくりを、チャウシェスクは北朝鮮の体制に学んだようです。

 いくら産油国であっても、国内政治が沈滞するとやがて経済活動も衰えてきます。貧富の差が広がっている一方でチャウシェスク周辺の一部の人々が裕福であり続けることに人々の不満は鬱積していきました。
 1989年、東欧諸国の民主化の動きが活発になり、ルーマニアにもその波が押し寄せ、民主化のデモが行われましたが、チャウシェスクは一切の民主化を拒否、軍に対して武力弾圧を命じます。しかし、当時の国防相ワシーリ・ミリャは民主化デモに対する武力弾圧に反対しました。その結果、ワシーリ・ミリャは殺されてしまいます。これをきっかけに、国軍はチャウシェスクに反旗を翻して市民の側につき、チャウシェスク側の治安部隊と銃撃戦を展開することになりました。
 結局チャウシェスク夫妻は逮捕され、裁判にかけられると、大量虐殺と不正蓄財の罪で死刑となり、即日執行されました。逮捕から処刑までの様子はすべてテレビ放送で流されました。1989年12月27日のことでした。

◇30年前の日本の状況
 1989年のベルリンの壁崩壊までの動きにつきまして、東ヨーロッパ諸国の民主化運動を中心に書いてきました。ソ連共産党という巨大な権力に対して、東欧の国々が粘り強く抵抗した結果がベルリンの壁の崩壊につながりました。民主化とは一言でいえば参政権を得ることです。日本では当たり前のことが当時の東欧ではとても実現困難なことでした。逆に言えば、選挙での投票率の低い日本人は、民主主義という制度を生かせてないのかもしれません。
 1989年1月、日本は昭和から平成へと時代が変わりました。4月には消費税が初めて導入され3%が課税、6月には竹下内閣が総辞職し、宇野宗助が首相になるもすぐに辞職、8月に海部内閣が発足しました。この時に自民党幹事長に就任した小沢一郎が実権を握り、隠然と政界を操っていくことになります。
 経済的にはバブルの絶頂期で、三菱地所がニューヨークのロックフェラービルを買収したことが話題となった年でもありました。

◇もう一つの民主化運動「天安門事件」(1989年6月4日)

 共産主義体制に対して民主化を求める声は中国にも芽生えていました。1985年、ソ連でゴルバチョフが書記長に就任して、長きにわたる共産党独裁政権の腐敗を一掃するために「ペレストロイカ」を断行する様子を、中国の若い学生たちは見逃すことはありませんでした。そして、彼らが期待した政治家が胡耀邦という人物でした。胡耀邦は中国共産党中央委員会総書記という要職につき、ゴルバチョフのように言論の自由を推進しました。中国経済は鄧小平国家主席が改革開放路線を打ち出して自由化を進めていましたが、共産党の独裁は堅持していました。経済の自由化は土地の許認可権を持つ共産党にとって、賄賂を受け取る機会が多くなり、大きな利権になってしまいました。このような状況を見て、胡耀邦は、経済を自由化するならば政治も民主化しなければならないと考え、鄧小平ら保守派と対立しました。中国の若い学生たちは、開明的な胡耀邦を支持していたのですが、1987年に失脚し、北京の自宅で軟禁生活を強いられたのち、1989年4月に死去してしまいました。
 北京市内では胡耀邦の追悼集会が開かれ、これをきっかけにして民主化推進の集会がたびたび開催されるようになってきました。特に天安門広場での集会は規模を拡大していき、4月には10万人を超す大規模なデモに発展、民主化や汚職打倒を求めるデモは地方でも発生するようになりました。これらの動きに対して、保守派は彼らの抗議行動を「動乱」として厳しく対処する姿勢で5月19日に戒厳令を布告したものの、それに抗議するための100万人規模のデモが起きるなど事態は収まる様子が見られませんでした。北京政府は厳しい報道管制を敷き、外国メディアを締め出し始めました。人民解放軍による武力介入が近いと察した知識人たちは、天安門の学生たちへ解散を呼びかけましたが、学生たちは動きませんでした。そしてついに、6月3日夜から4日未明にかけて戒厳令責任者である李鵬首相の命令により、完全武装の人民解放軍が民主化を要求する学生たちの集会に投入され、共産党指導部の命令に忠実に無差別に発砲しました。現在中国では天安門事件そのものがタブーとされているので、どれほどの若者たちが犠牲となってしまったのかはわかりません。
 中国では東欧のような民主化は実現できませんでした。もし、民主化されていたとしたら、ソ連のように解体されて中華人民共和国という国がなくなっていたかもしれません。

◇最後に
 ベルリンの壁が崩壊したという事実は知っているものの、改めて調べてみると知らないことが多いことに気づきます。当時は何の意味があるのかわからなかったことが30年を過ぎてその意味を知ることもあります。インターネットの普及によって30年前に比べるとはるかに多くの情報にアクセスすることができるような時代にもなりました。何よりも自分自身が若かった時のこと、これまで生きてきたことに対してもう一度向き合ってみたいという思いがあったので、ここまで書いてみました。下手な文章で申し訳ない思いです。お付き合いいただいてありがとうございました。