◆イエスを処刑した者たち
イエスが神ならば、イエスを十字架にかけた勢力は、神と対立する存在であると思います。ゾロアスター教的に言えば悪霊・アーリマンです。イエスを十字架にかけたのは、ユダヤ教の律法学者たちでした。この律法を選民思想に適用することで、下層のユダヤ人や非ユダヤ人たちを救われないものとして差別していました。
ユダヤ教そのものが悪なのではなく、その指導者たちが下層民の暮らしを顧みないことに問題がありました。彼らが崇拝したのは絶対神ではなく特権でありそれにまつわる利権だと思います。利権とは人の人生を犠牲にしても自分たちの権益を守るものです。多少のものであれば一般大衆は特に傷つくことはないと思いますが、これが巨大なものとなると人々を不幸に突き落としてしまいます。イエスが戦っていた相手はこのような人たちであり、ゾロアスター教的には、善と悪の戦いの歴史における最も熾烈な場面であったのではないかと思います。磔の十字架像はそのことを記憶したものであり、現代に大切なことを伝えているように思います。
これはクリスチャンでない私が十字架を見るときに思うことで、イエスが当時の利権と戦ったなどという俗っぽい解釈をすることについては、きちんと聖書を学ばれているクリスチャンの方に申し訳ない気持ちがあることは申し添えておきたいと思います。
◆大塩平八郎の乱
日本の歴史も善悪の戦いが続けられてきたと思います。イエスと似たような状況にあった人として大塩平八郎を思い浮かべます。彼も腐敗した権力とそれに癒着する金融業者の利権に対して命を懸けて戦った人でした。
大塩平八郎
大塩平八郎は江戸時代末期、大坂町奉行の与力として25年間務めた人物です。大坂町奉行は警察、裁判などの治安維持の行政機関で、与力はそこで働く役人にあたります。大塩は正義感にあふれ、幕府役人の不正にも厳しく対処していました。退職後は洗心洞という塾を開き陽明学を教えていました。陽明学とは「知行合一」を基とする儒学の一つです。「知行合一」とは、知識は行動を伴わなければ意味がないという考え方です。彼は文字通り実践を重視し、最後は大塩平八郎の乱をおこします。
乱の背景には天保の大飢饉があります。当時深刻な米不足で庶民の生活は困窮していました。一方で米を買い占めて値段を上げ利益を大きくしようとする商人が現れます。当時の奉行は有効な手を打つことができませんでした。大塩は何度も救民の献策を申し出ましたが無視されます。そこで、洗心洞の有志と決起し、救民の旗を掲げ、三井や鴻池などの豪商を襲います。蔵にある米を民衆に配分するのが目的でした。
自身の財産をすべて売り払い、困窮する人々へお金を配る一方、武器も購入して準備し、幕府あての書状も書いていますので、激情にかられた短絡的な行為ではないようです。立場上知りえた豪商と幕府高官を巻き込んだ癒着の構造に切り込みたかったのでしょう。普段では目に見えない権力の腐敗が、飢饉によって明らかになり、義憤にかられたものと思われます。しかし乱はすぐに鎮圧され、大塩は自害しました。
大塩の乱は1838年に起きました。ペリーが来航した1853年の15年前のことです。ペリー来航が明治維新のきっかけといわれていますが、すでにその前から幕府は内部から立ち枯れが始まっていたといってよく、大塩の乱はその証だと思います。
その後大塩平八郎の遺志を継いで、いくつかの反乱がおこりますが、いずれも鎮圧されています。反乱は大火を起こし、大きな被害を出したので、庶民にとって大塩が“救世主”と見えたかどうかはわかりません。しかし、民を犠牲にする大きな利権構造の“悪”を大塩が知り、それに異を唱えたことはイエスに重なります。イエスは神への信仰に殉じ、大塩は陽明学の「知行合一」の教えに殉じたものだと思います。
◆お金は神ではない~エンデの遺言
大塩の乱は、飢饉という危機的状況で、“お金”にまつわる利権が庶民の生活を助けないことを明らかにしました。お金は使いようによっては善にも悪にもなります。人々が日々の生活を営み、将来への準備として蓄えを持ち、より多くのお金を得るために頑張ることは自然のことだと思います。しかし、それが“資本”に形を変え、権力と結ぶとき、人々の生活を左右するような大きな力となります。
ドイツの児童作家ミヒャエル・エンデは、「エンデの遺言」の中で、「パン屋でパンを買う購入代金としてのお金と株式取引所で扱われる資本としてのお金は、まったく異なった種類のお金である。」と語っています。
さらに、お金は神のように見えるが、神ではないと次のように語っています。
古い文化が残る世界のどの街でもその中心には聖堂や神殿があります。そこから秩序の光が発していました。今日では、大都市の中心には銀行ビルがそびえ立っています。私はハーメルンの笛吹き男をヒントにした最新のオペラで、お金があたかも聖なるものとして崇拝され、そこでは誰かがお金は神だとまで言います。なぜならお金は奇跡を起こすからです。お金は増え、しかも永遠不滅という性質があります。しかし、お金というのは神とは違って人間が作ったものです。自然界に存在せず、純粋に人間が作ったものがこの世にあるとすれば、それはお金です。だから歴史をふりかえることが重要なのです。
大きな資本による経済危機は、大きな事件としては1997年のアジア通貨危機、2008年のリーマンショックがあげられます。いずれも庶民生活を直撃しました。巨大マネーの力を“悪”が行使した時、その強欲さは多くの庶民を苦しめることになります。
世界規模の資本だけでなく、身近な例でいえば保険金殺人や振り込め詐欺、麻薬の売買などは、人の人生をまったく顧みない悪魔の所業といえます。善と悪の戦いは身近なところにもあります。
◆善と悪の戦いは続いている
利権については公然と見えているものもあります。例えばパチンコは明らかにギャンブルですが、違法なものにはなっていません。警察がそれを放置しているのは警察官僚の天下り先が業界に用意されているからです。大塩のようにこの問題を本気で切り込んでいけば殺されてしまうでしょう。似たようなことでIR法が取り上げられます。これもカジノというギャンブルを誘致するためのものです。長引くデフレで給料の上がらない庶民にとっては無縁のものを、経済の活性化という美名のもとで推進しています。庶民の生活に全く不要なものを強く進めている背景には、関係する資本家たちの利権を作るためなのでしょう。これに異を唱えることも勇気がいることです。
今のコロナ禍においても同じことが言えるのではないでしょうか。日本のため、社会のため、子供たちのためという美しいスローガンのもとに行われている“対策”は、はたして庶民のためになっているのでしょうか。背後にある巨大な利権が“悪神”アーリマンであれば、庶民を犠牲にしているかもしれません。巨大な力はメディアをも操ります。私たちのよって立つものは人としての“本能”と、“感性”しかないように思います。
天上界のアフラ・マズダとアーリマンの戦いは、今、善神が苦境に立っていて、それが地上界にも共振しているように思います。私たちが善神とともに戦うには、日々の生活をただし、自らを浄化していくことだと思います。そうすれば、何が“悪”であるかに気付かせてもらえるのではないかと思います。