〇勢い止まるドイツ軍
続いてドイツ軍はいよいよ1941年10月2日、モスクワを攻略する「台風」作戦を開始します。しかし、進撃を開始したものの、燃料の不足やそれまでの戦闘で戦闘車両の消耗が激しく、勢いを失っていました。また、10月6日から7日に初雪が降り、道路がぬかるみ、進軍が困難となりました。そして、道路が凍結するのを待って11月に行軍を再開し、モスクワまで30kmの所まで進軍しますがここが限界でした。12月に入り、ロシアでも珍しいくらいの厳冬となり、寒さの準備が不足していたドイツ軍は12月5日、攻撃を中止します。その翌日、極東から招聘した兵力と新型兵器でもって、ソ連軍が反撃に転じ、ドイツ軍は撤退を余儀なくされました。冬が来る前に短期決戦を目論んでいたナチスドイツは長期戦へと戦略を転換せざるを得なくなりました。そして、12月8日、日本が真珠湾を攻撃したことで、同盟国のドイツも11日にアメリカに宣戦布告、欧州の戦争から本格的な世界大戦へと拡大していきます。
著者によると、ここから軍事的合理性に基づき、相手の継戦意思をくじくことによって戦争終結に導こうとする通常戦争の側面は後退し、世界観戦争と収奪戦争の性格の異なる戦争へと変化していきます。良い悪いは別にして、他国民を飢えさせてでも自国民の支持を保持するという点では「合理性」は残っていたのですが、次の「絶滅政策」に至っては軍事的合理性から逸脱した無意味な虐殺を繰り返していき、それを実行したのが「出動部隊」でした。敵地に侵攻する国防軍の後に続いて現地に入り、ナチ体制にとって危険と思われる分子を殺害排除することを任務とし、教師聖職者、貴族、将校、ユダヤ人などドイツの占領支配の障害となるであろう人々を殺戮していきました。この出動部隊の手にかかった人々の数は少なくとも90万と推計されています。
また、ソ連軍捕虜の扱いは、西側の国の捕虜の扱いと比べて劣悪であり、570万のソ連軍捕虜のうち300万名が死亡しています。独ソ戦開戦直後、ソ連軍が大敗を繰り返す中で、ウクライナや旧バルト三国では、ドイツ軍はスターリン体制からの解放者として歓迎されたこともありましたが、人種主義的収奪を目的としていたナチスドイツにとっては無意味なことで、当時数百万のソ連兵捕虜への虐待はやまず、歓迎した人々も離反していきました。
捕虜については、ソ連のドイツ軍捕虜への扱いも同じもので、開戦当初ドイツ軍捕虜はその場で射殺することがしばしばありました。捕虜収容所に入れられたドイツ軍兵士は劣悪な環境と重労働によって1941年6月の開戦から43年2月までに17万~20万のドイツ軍将兵が捕虜となりましたが、生き残ったのはそのうちの5%にすぎませんでした。捕虜の無意味な殺戮は、両国とも国際法違反だったことはいうまでもありません。