森本さんの詩と手記~平和について思うこと

「平和を願う草の根グループえんどうまめ」では、チェルノブイリ原発事故被曝者への追悼行事を毎年4月に行っています。今年も先月の4月22日、「まーるい心と笑顔と花の集い」として、林ファミリーによるプチコンサートが行われ、それに先立って、詩人の森本真智子さんの詩と手記の朗読が行われました。森本さんの戦争体験のお話と、平和のもとでささやかな家族の幸せを分かち合うコンサートが開かれたことは、「平和を願う草の根グループ」として意義深いことでした。
今年の初めごろ、石川さんは森本さんにぜひ戦争体験から平和についてお話ししてほしいとお願いをしていました。森本さんは、難しい話だから引き受けることをためらわれたのですが、「一生に一度のお話」として、詩の朗読とともに、かつてウベニチ新聞社に手記として掲載された満州からの逃避行の手記を紹介していただきました。その内容は深い悲しみとともに胸に迫るものがありました。
ここで、森本さんの許可をいただきましたので、詩と手記を掲載させていただき、皆様と「平和」について考える契機となればと思います。

森本さんは最初に「父よ」という詩の朗読をされました。
明治時代から昭和の終戦、戦後に至るまでの動乱期、家族を守るために懸命に生き続けたお父様が病気によって床に伏せ、その命の最期を迎えようとしているときに、娘である森本さんが感謝しながらやさしく介護している情景を書かれたものです。

父よ
森本真智子

かつて
これ程父に話しかけたことが あったろうか
寡黙で かたくなな父に
こんなにも優しい声で

かつて
これ程父に 触れたことが あったろうか
寝がえりさえできないほどに
衰弱した父を
抱きかかえて 向きをかえる

体を拭く
赤ん坊のように
すべてを私にゆだねた 体を拭く
その胸の中を どんな苦悩やロマンが生まれ
消えていったのだろう

明治 大正 昭和を
ひたすらに生き抜いたその背中を
動乱の車輪が ガラガラと駆け抜けていった

戦争 あなたは何を見
どんな苦しみの中で戦ったのか
何も語ろうとはしない
どんな時にも ひたすらに
ただ 生き抜くこと
家族を守ることだけに執着してきた手のひらを
丹念に 指の先まで拭く

父の臓器が壊れてゆく
壊れながら そこにある
古びた肉体に包まれて
その機能を 停止しようとしている
挿入されたままのカテーテルに
ほとばしり出ようとするものを遮られ
父は 尿意さえも感じることはない

眠っている父の喉が鳴る
細い笛の音のように
遠い木枯らしのように

眠りなさい
もっと深く
すべての重荷をおろして
眠りの間は 苦痛の捕縛が解ける
まだ あなたは その眠りの中で
未来を夢見ることも出来るのだから

森本さんの幼年期、お父様は家族とともに満州に移住しました。お父様は満州の工場で働いていて、ご家族は会社の社宅に住まわれていたということです。その社宅には水洗トイレや暖房設備も完備されていて、文化的な生活だったそうです。

満州国

しかし、昭和20年の敗戦間際にお父様が徴兵され、日本の敗戦が決まって、ソ連軍が侵攻してくる前に、残されたお母様、5歳の森本さん、3歳の妹さん、生まれたばかりの赤ちゃんの4人で逃げなければなりませんでした。

当時5歳だった森本さんには社宅のあった場所やお父様の会社の名前までは記憶にありませんが、逃げる先の地名は記憶に刻まれていました。

フシン。

お父様の会社の本社がある都市の名前でした。

地図で探しますと阜新というところです。また、その近くにあるコロ島は、のちに満州からの引揚者が輸送された港のある場所です。島ではなく、大陸沿岸の都市の名前です。

森本さんの手記は、満州での逃避行から引き揚げ船がやってくるころまでの苦難が記されています。(訂正:地図ではロコ島となっていますが、正しくはコロ島です。)

森本さんの手記

~5歳の記憶~

遠雷のような大砲の音が、昼夜を分かたず響き始めたのは終戦間もない頃であった。社宅の周りは不気味な空気に包まれ、人々は眠れない夜を過ごしていた。

「フシンへ避難する」

夜のうちに伝達がとび、翌早朝、母は5歳の私を頭に、3歳、そして1歳にもならない妹達を連れて集合場所へ急いだ。父は戦地である。本社のあるフシンへの旅は、馬車が何台も連なるはずであった。だが、馬車は一台も来ない。やむなく歩き始めた人々は、まもなく土煙を上げる集団に襲われたのである。

「コーリャン畑へかくれろ!」

誰かが叫んでいた。私たち親子も丈高く繁茂するコーリャン畑の中にかくれた。だが、すぐに見つかり、私は母から引き離されてコーリャン畑の中をぐんぐん引きずられていった。たぶんそれは中国人達の恨みの形だったのかもしれない。おやつを入れた小さなリュックと水筒をもぎとられ、放り出された。必死で母を探す。母も何人もの男達に赤ん坊を背負ったままもみくちゃにされ、「金を出せ、金を出せ」と体中を押しまくられて、腹巻の中に隠し持っていたお金を腹巻きごとはぎとられ、散らばったお札をかき集めて持って行ってしまったという。やっと起き上がった時、横たわっていた自分の体の下に、三枚のお札が残っていたらしい。そのお札を赤ん坊のおしめの背中の方に押し込んで守れたのだと、終戦から何年も経って話してくれたことがある。

ついこの間まで従順な中国人であった彼等は凶暴な匪賊と化して襲ってきたのである。この一回目の襲来で人々は荷物を奪われ、身ひとつになってしまった。こうして、悲惨な逃避行は始まったのである。匪賊たちは幾度も幾度もやってきた。そのたびに靴や服、身に着けているものをはぎとっていった。男も女もパンツだけであった。女たちの胸を隠すものさえない。男達はそのほとんどを兵隊としてとられ、残っているのは年配の男達だけ。夜は河原でうずくまって眠った。「赤ん坊を泣かすな。泣かすと殺す」という命令で、泣き止まない我が子の口をおさえ、窒息死させてしまった母親の話も聞いた。裸足の足から血が流れ、熱い大地が足裏を焼く。突如、近くでうめき声がした。

「みんな止まって!後ろを向いててください!」

緊迫した女性の声で列は止まった。お産が始まったのである。どれくらいの時間がたったのだろうか。激しいうめき声だけがあたりに響いていた。

「出発!」

赤ん坊の泣き声は聞こえなかった。草むらにおびただしい血が流れ、夏の太陽に乾いていくのを私は強烈なショックの中で見ていた。誰も口をきく元気もない。

赤ん坊はどうしたろう。お産をした女性は?

隊列はただのろのろと進んだ。当たり前の道は歩けない。ただ方角だけを定めて原野を歩く。コーリャン畑をくぐり、岩山をのぼり、迷い、時に引き返す。川に出ると喚声が上がった。水は口に入る唯一のものだ。汚れた足がたちまち水を濁らせたが、人々はひたすら貪り飲んだ。

「出発だあ」

しわがれた声が叫ぶと、人々は血のにじんだ足で、再びのろのろと歩きだす。その時、身近で何発かの銃声がした。目の前の少年がぐらりとくずおれた。少年は膝を撃ち抜かれていた。母親が狂気のように叫んでいた。

「助けて!誰か早くこの子の手当を!!」

だが、手当をするものなど、何があろう。赤ん坊でさえ、裸なのだ。

歳をとった女達がかろうじて腰に巻いていた腰巻が少しずつちぎられて、少年の膝を包んだが、みるみるうちに鮮血に染まった。

15,6歳であったろうか、少年は声さえも上げなかった。たぶん、気を失ったのだろう。両手をだらりと下げて、ぐったりと男達の背に担がれていった。疲労と空腹、そして暑さのために草原にくずおれていくものが相次いだ。倒れてしまえばそこが墓場となろう。

「歩いて!歩いてね!置いていかれたら死ぬのよ!」

生まれたばかりの妹をおぶった母が、呪文のように私と私の妹の手を引きながら言い続けた。どうしても隊列から遅れてしまうのである。

取る物もないのに匪賊たちは銃を撃ち、脅し続けた。中国人に連れてゆかれた女性もいた。子どもを連れてゆかれた女性もいた。

「日本人の子どもは高く売れるそうな。」

そんな噂も流れた。

三日目の夕方であったろうか、前の方からどよめきが伝わってきた。フシンへ着いたのだ。道の両側に畑があった。わらわらと人々は畑に飛び込み、小さな青いトマト、親指ほどの茄子、畑に残っていたそんなものが子どもたちの手に配られた。私は今も、濃い紫色をした親指ほどの小さな茄子の味を忘れてはいない。

しかし、やっとの思いでたどり着いたフシンはすでに中国八路軍やロシア兵に占領され、私たちはあちこちから集まった人々と一緒に大きな工場のような収容所に詰め込まれた。

横になる隙間もない。配られた軍服らしい服を着て、互いに寄り添いながら座ったまま眠った。コーリャンが何粒か浮いている水のような雑炊が配られる。食べ物は悲惨を極めた。若い女性たちは一人で便所にも行けない。常に狙われていた。彼女たちは髪をざん切りにし、口笛を吹き、胸のふくらみを隠すために腕を組んで歩いた。それでも連れて行かれた女性の話、死んでいく人々、いろんな悲話が流れた。

その頃、次々と戦地から男達が戻り始め、父も帰ってきた。すでに40を越えていた父は遠くへは出されなかったらしい。とにかく、家族が揃った。冬が近づいていた。ここでは難民たちを収容しきれなかったのか、いくつかに分けられ新しい収容所に移された。そこは会社の独身寮でもあったのか、たくさんの部屋があり、私たちにも一つの部屋が与えられたが、ロシア兵たちは昼夜を問わず、不意に部屋に押し入ってきては点検、見回りをし、時に脅して出てゆくのだった。

そのころ、3歳の妹が目に見えて衰弱していった。逃避行の途中で母が背におぶった赤ん坊のおむつの中にいくらかのお金を押し込んだというその貴重なお金で、父は近くの中国人の家をたずね歩いて卵などをわけてもらったのだが、それさえも飲み込む力を失っていった。

昭和21年1月1日、正月、朝日の中で妹は死んだ。次々に人々が死んでゆき、雪の原野に土まんじゅうが増えてゆく。我慢強い母であったが、満州の原野に我が子を埋めて日本に帰ることだけはできないと、狂気のように叫び、ついに父は懸命に雪の中を駆けずり回って、木を集めたらしい。夜、父は妹を抱いて出かけていった。翌日、妹は骨になって帰ってきた。親しい男達が、父と一緒に、防空壕の中、マンホールのふたの上で焼いたのだという。それが妹の哀しい葬儀であった。

「ここから脱出しよう。」

妹の死を境に、父は決心したようだ。衰弱してゆく家族をいつまでもここに置いてはおけない。ここではまだ日本へ帰れるめどはないのだという。仲の良かったもうひと家族を誘い収容所の脱走を企てた。実行は早かった。

その夜、いつものように眠りについた私が起こされたのは、夜明けの気配のない真夜中だった。闇にまぎれて収容所を後にした。外は吹雪だった。私はしっかりと妹の遺骨を背負った。「由紀ちゃんが守ってくれるからね」

と母は言った。いつしか吹雪がやみ、雲が切れて月が出ていた。なぜか私は一面の原野を照らすこの夜の月を強烈な印象で記憶しているのだ。山を越え、峠を越えた。何を目標に父は歩いていったのだろうか。全身が凍るかと思った。1月の満州は寒い。何度も何度も私は歩きながら眠っていた。いくつかの夢を見ていた記憶さえあるのだ。私の手を握っている母が絶えず揺り起こす。

「眠ったらダメ!眠ったら死んでしまうよ!」

母に引きずられながら、つまずきながら、転びながら、なお眠りだけが襲ってくる。凍死するというのはああした状態なのだろうか。

夜が明けた。休む暇はない。ひたすら歩いた。

空は曇り、やがてまた雪になった。

どのくらい歩いたのだろうか。遠くから叫ぶ声が聞こえた。

「しまった」

父はつぶやくように言った。

「見つかったか」

もう一家族の人々と顔を見合わせる。

叫んだのは中国人であった。

刀のようなもので、父たちを突くようにして歩かせ、全員を暗い倉庫のようなところに監禁した。

「殺されるかもしれない。」

大人たちの囁きが強く印象に残っているが、不思議に恐怖感はなかった。

父がいる。母がいる。それだけで私は安心だったのだ。

どのくらいの時間がたったのだろう。

「出ろ」

と言ったらしい。

外は暗く、がやがやと話し合う中国人たちに囲まれるようにして連れて行かれたのは、明るく灯をともされた大きな家であった。

大人(タイジン)

と人々は呼んでいたようだ。村の村長のような人かもしれなかった。この家で意外にも私たちは歓待されたのである。

真黄色の粟のご飯、オンドルのきいた温かい部屋。覚えているのはそれだけだが、父が片言の中国語で大人と穏やかに話すのを聞きながらぐっすりと眠った。

数年の後、母に、

「なぜあの時あの中国人たちはやさしかったのかしら」

と聞くと、

「どこの国にもあたたかい人はいるものだよ。だけどこれ以上日本人を虐待してはならないとお達しがあったのかもしれないねえ。」

と言った。

翌早朝、私たちは大人に感謝を伝え、出発した。

その日の夕方、凍てた大地の向こうに町が見えた。

「おお、着いたぞ!」

父がふりむいて笑った。

雲の切れ間から夕陽が矢のように大地に届き、その下の明るい光景が鮮やかに蘇ってくる。この街は終戦までいた社宅の近くの中国人街であったらしい。父を知る中国人も何人かいて、何かと助けてくれたようだ。

どこからともなく日本人たちが集まり、この街で4か月くらいを暮らした。父は石炭を拾って売り、母は毎日中国人から借りた糸車を回していた。糸に綿を巻き付けて毛糸を作り、それでセーターなどを編むのである。中国人たちからの注文は結構多く、母は忙しそうであった。

日本に帰る船が来たのは5月半ばごろではなかったろうか。誰も彼も、収容所で配られた軍服のままであった。

悲惨な体験を持つ人たちほど寡黙であると言われる。

父は満州での出来事も戦地でのことも一度も話そうとしなかった。

その父も逝った。

私の中の記憶も薄れていく。

戦争を語りつぐ人々は少なくなってゆく。

森本さんが引き揚げの船に乗ったのは引き揚げ事業が始まって初期のころではないだろうかと言われていました。そして、日本側の港は佐世保だったのではないかとも言われました。

事実、引き揚げ船の第一便は昭和21年の5月7日で、向かった先は佐世保でした。

コロ島からの引き揚げは昭和21年(1946年)5月7日から開始され、同年末までに101万7549人(うち捕虜1万6607人)、昭和23年(1948年)までに総計105万1047人の在留日本人が、博多港、仙崎港、舞鶴港など国内の港へと送還されています。これは中国国民党政府(陸上輸送部分)とアメリカ(海上輸送部分)の責任において行われた日本人難民の送還事業でした。コロ島港の桟橋跡には「1050000日本僑俘遣返之地」の記念碑が建っているとのことです。[Wikipedia(ころ島在留日本人大送還)より引用]

当時、主権を失っていた日本はこの引き揚げ事業を手掛けることはできませんでした。しかし、満州で難民となってしまった日本人居留民の惨状を知る有志たち(新甫八朗氏、丸山邦雄氏、武蔵正道氏)が命からがら満州を脱出し、GHQ、マッカーサー、吉田茂などに直訴することによって、満州からの引き揚げを実現することができたのでした。

そのことは、今年3月にNHK総合テレビで放映されたドラマ「どこにもない国」で描かれていて、森本さんのお話を聞いた後で、私もインターネット放送で見ました。ドラマは上下白いスーツで颯爽と登場した主人公の丸山邦男氏がたちまちソ連兵に暴行され丸裸にされるシーンから始まります。前編後編合わせて2時間以上のドラマでしたが、当時の満州避難民の状況や、それに対して何もできない日本政府の事情などよく描かれていたと思います。「どこにもない国」とは、ソ連侵攻によって崩壊してしまった満州国と、敗戦によって主権を失った日本のことです。満州国という国、日本という国はどこにもなくなってしまったということです。一方で、「どこにもない国」とはギリシャ語でユートピアという意味を持ち、
素晴らしく良い場所であるがどこにもない場所という意味でもあります。ドラマではアメリカで政治学を学んだ丸山邦雄氏が「それは人々の心の中にあるもの」と語っていたことが印象的でした。亡国の中で、なおも希望を見出そうとする当時の人々を思うとき、森本さんたちのような悲劇を国民にもたらしてしまった政府や国の罪深さを感じます。

手記の朗読が終わって、森本さんは次のように述べられました。

手記はこれで終わりですが、皆さん、5歳の女の子の足を思い出してみてください。あの満州大陸の原野を歩けるような足でしょうか。血が出ては乾き、また血が出ては乾き、足の色は変わっていきます。痛くて痛くて、一歩一歩歩くたびに体中につき抜けていく痛み、頭の芯につき抜けていく痛みを私は今も忘れることができないでいます。

戦争はどんなに弱い立場のものにでも、また、どんなに幼いもの達にでも等しく過酷な運命を与えます。もう二度と戦争はしてほしくない。今日はその思いを、皆さんに、一生に一度、私の口からお伝えしたくて参りました。長いお話、皆さま、静かに聞いていただいて、本当にありがとうございました。

一生に一度のお話ということに重さを感じます。森本さんから伝えられたことを大切に受け止めたいと思います。私は「満州」ついての知識もほとんどありません。でも、「平和」を考えてみるとき、過去の戦争がどのようにして引き起こされたのかを学ぶ必要を感じています。それは現代に通じる平和への手掛かりになるとも思っています。