イエスの凄さ

◆世界一信仰者の多い宗教 
 前回の投稿でキリストの墓を取り上げたのをきっかけに、キリスト教について考えてみました。なぜイエスが磔刑という極刑に処されなければならなかったのかを、キリスト教徒ではない視点から考えてみたいと思います。

キリスト教は全世界で一番信仰者が多い宗教です。
キリスト教徒 22.5億人
イスラム教徒 14.3億人
ヒンズー教徒 9.1億人
仏教徒 3.8億人
(日本と世界の統計データより)

 日本のキリスト教信者の数は全人口の1%程度と低く、あまりなじみのあるものではないと思います。しかし、キリスト教を知ることは、世界の文化的背景を知る手がかりともなりますので、高校の教科書程度の知識をもとに、キリスト教について調べてみました。

◆ユダヤ教の成り立ち
 一言でいえば、キリスト教はユダヤ教を改革したものです。もともとは、イエスもユダヤ人でユダヤ教徒でした。キリスト教を知るために、まずユダヤ教がどのようにして成立したのかを遡ってみます。
 ユダヤ人の先祖はヘブライ民族で、ユーフラテス川上流域で遊牧生活を送っていました。紀元前2000年ごろパレスチナ地方へ移動し、その後エジプトへ入ったと考えられています。前13世紀、圧政に耐えかね、民族的指導者であるモーセに率いられてエジプトからパレスチナへ逃れます。これは「出エジプト」といわれています。この途中紅海を渡るときに海を割って歩いたという伝説は有名です。モーセはシナイ半島のシナイ山に登り、神ヤハウェとの間で結ばれた契約書を持ち帰ります。この石に刻まれた契約書を十戒といい、ここからヤハウェを唯一最高神とする信仰が始まりました。ヤハウェYahvehはヤーベ、エホバとも呼ばれます。
 
十戒を振りかざすモーセ/レンブラント

十戒
1,私のほかに神があってはならない。
2,主の名をみだりに唱えてはならない。
3,主の日を聖としなさい。
4,父母をうやまえ
5,殺してはならない。
6,姦淫してはならない
7,ぬすみをしてはならない。
8,隣人への偽証はいけない。
9,隣人の妻をほっしてはならない。
10,隣人の財産をほっしてはならない。

 モーセはその後40年放浪しながら人々を導き、ヨルダン川の手前で亡くなりました。

 エジプトから逃れた彼らは紀元前11世紀から紀元前8世紀までパレスチナにヘブライ王国を樹立して首都をエルサレムにおき、ダビデ王、ソロモン王の頃全盛期を迎えました。しかし、その後衰え、王国は北にイスラエル王国、南にユダ王国と分裂、やがて、それぞれ異民族に滅ぼされてしまいました。特に、バビロニアに滅ぼされたユダ王国の民はバビロニアに連れ去られる「バビロン捕囚」という民族的苦難を経験します。しかし、そのような中でも伝統を失わず、かえってヤハウェへの信仰は強まり、神と契約しているユダヤ人だけが救済されるという排他的な選民思想や、この救済を実現する救世主メシアの到来を待望する信仰が生まれ、「旧約聖書」の編纂が始まりました。捕囚から解放されて帰国するとエルサレムにヤハウェの神殿を再建し、儀式や祭祀の規則を定めてユダヤ教を確立しました。紀元前6世紀ごろのことです。日本では縄文時代末期から弥生時代に移る過渡期にあたります。ヘブライ民族の中からユダヤ人と呼ばれる人々が現れたのもこのころではないかといわれています。そこで説かれた最後の審判や、天使・悪魔の存在、救世主の出現にはペルシアのゾロアスター教の影響が指摘されています。
 ユダヤ教が確立すると、信仰や日常生活の規則が細かく決められ、これら律法を重んじるようになっていきます。ユダヤ人の王国は独立の動きもありましたが、結局ローマ帝国の属州として存続していきます。
 
◆イエスの登場
 イスラエル北部のナザレという場所でイエスが生まれたのは紀元前7~4年ごろといわれています。そのころ、ユダヤ人たちはローマから派遣される総督の元で統治されていました。ローマは多神教で宗教には寛容でしたから、税さえ払えばユダヤ教の信仰も自由にさせていました。ローマからパレスチナへ派遣された総督のピラトゥスもあまりユダヤ人たちを刺激せず、税さえ収めてくれたらよいという考えだったようです。
 このころのユダヤ教徒たちはいくつかの考え方に分かれていました。王や貴族、神殿の祭司たちはローマ帝国と友好的な関係を保とうとしていました。それに反して、熱狂的な反ローマの民族主義者たちもいました。また、神の戒めである律法を研究し、ユダヤ教の知識を独占していたパリサイ派と呼ばれる律法学者たちも力を持っていました。一方で、禁欲的な修道生活をおこなう人々もいました。イエスはこの修道生活者の中から台頭します。
 イエスが影響を受けた人物として、洗礼者ヨハネがいます。悔い改めの洗礼という儀式を始めた人で、祭司ら上層ユダヤ教徒の堕落を批判し、神の怒りと裁きが近いことを宣言しました。王家を批判したことによって、彼は殺害されてしまいます。

説教をする洗礼者ヨハネ/ピーテル・ブリューゲル

 イエスは紀元後29年ごろ、イスラエル北部のガラリア地方で活動を始めました。30歳台半ば頃のことです。彼は洗礼者ヨハネのように、パリサイ派の律法主義を批判します。ユダヤ教の律法には行ってはならないことや食べてはならないものなどが細かく定められていて、この律法に則ったユダヤ人のみが救われるとされています。例えば土曜日の安息日には労働してはならないことや、豚や猪、うろこのない魚を食べてはならないことなど、貧しい人々にとってはなかなか守れない律法もありました。律法学者たちはそのような人々を救われない者たちとして蔑みました。救われないということは死後、天国へ導かれないということです。イエスはこのような律法は人を救いにいたらせないこと、神の愛は身分や貧富の差に関係なくすべての人におよぶこと、その神を信じて人はおのれを愛するように隣人を愛し、敵のためにすら祈るべきことを説きました。このイエスの教えは、律法によって縛られ、それを守れない罪悪感を抱える一般の人々にとっては大きな救いとなりました。イエスはまた、政治的な権威には従うべきことを教え、禁欲的な生活も勧めませんでした。社会秩序を乱したり無理な生活を強いたりすることはしませんでした。
 彼は社会的な弱者や病人、差別された人々をいたわり、癒しました。女性や下層の民衆の多くが彼を信じ、漁師や収税人らが弟子となり、彼らはイエスを神がつかわした救世主(メシア)すなわちキリストであるとみなしました。こうして、イエスがキリストとして認識される素地が出来上がります。

◆罪を犯していない人はいない
 聖書の中に、イエスが律法学者たちと対峙する象徴的なシーンがあります。一人の娼婦が姦淫の罪を犯しているとして石打ちの刑を受ける場面です。石打ちの刑とは、罪人を縛り、死ぬまで石を投げつけていくという残酷な刑です。
 イエスがその場面に登場し、そこにいた律法学者たちに言います。
「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」
「石を投げなさい」ということは、この女には罪があり、それに見合う刑に処せられるべきであるということを認めていることになります。しかし、「罪を犯したことがない者が」と前置きしていることから、罪を定め裁く権利があるのかどうかを問うていることになります。
 イエスの言葉を受けて、律法学者たちは去っていき、石打ちの刑は執行されませんでした。律法学者たちでさえ罪を犯していない人はいないということだと思います。

 この時、刑を免れた女性はマグダラのマリアといわれ、彼女はその後イエスが処刑されるまで付き従っていきます。イエスは彼女に「二度と罪を犯してはならない。」とも言っていますので、法による社会秩序を否定しているわけではないことがわかります。問題なのは、秩序のあり方であり、その秩序を支配する有力者たちの資質が問われているのだと思います。
 貧しく身寄りのない女性が明日の糧を得るために娼婦に身を落としていくことが罪であるならば、そのような人を救うことができない社会を作った人々にも同じように罪がある。特に大きな権力を持つ人たちがその利権を保持する一方で、人々に生きにくい社会を作っているとすれば、娼婦の罪よりもはるかに大きな罪となる。イエスはこのことをこの場面で教えてくれているのではないかと思います。

◆イエスの凄さ
 キリスト教徒でなくてもここまでの話だけでイエスの凄さを感じます。律法第一主義は人を救わないとし、神のもとでは身分差はないという考えが、当時どれほど危険なものだったのかということを想像すると、イエスの信仰に裏打ちされた勇気と信念に凄さを感じてしまうということです。
 ユダヤ教の律法学者は膨大な律法の知識を独占して特権を保持していました。律法はそれを守るユダヤ人のみが救われるという選民思想の要となるものです。イエスの教えはこの特権やそれにまつわる利権、差別、選民思想をことごとく破壊する思想でした。しかも多くの大衆が彼を支持していて、非ユダヤ人であっても神の愛が及ぶと説くに至っては、特権を脅かされる律法学者たちにとって、イエスはなんとしても生かしてはおけない存在となりました。彼らはイエスに国家反逆罪というローマ帝国最大の罪をきせて、磔刑という極刑を訴え、事なかれ主義のローマ総督ピラトゥスはこれ以上ことを荒立たせないためにそれを許可してしまいした。
 このイエスの受難の場面が「パッション」という映画で再現されています。パッションとは受難という意味です。かなり残酷な描写があるので、視聴をお勧めできるものではありませんが、2004年にこの映画を見た時の衝撃はいまだに脳裏に焼き付いていて、なぜイエスはこんな悲惨な目に合わなければならなかったのかという疑問が今日まで続いていました。ぼんやりとではありますが、今その答えを自分なりに記しているところです。

 紀元後30年ごろ、エルサレム郊外のゴルゴダの丘で、残酷な磔刑が行われました。イエスは絶命の間際に、
「わが神よ、なぜ私をお見捨てになるのか」
と叫んだといわれています。神とはヤハウェであり、イエスはユダヤ教徒のユダヤ人として命を落としたといえます。
 キリスト教はイエスの死後、神として復活したイエスに会ったという弟子たちによって確立されていきます。新約聖書が編纂されイエスの教えが布教されていきました。キリスト教は発展をつづけ、多くの信者を獲得していき、神の代理人たる教皇と教会の権威も高まっていきます。しかし、どんなにキリスト教が発展し、権威が高まったとしても、イエスの処刑がキリスト教の原点だということに変わりはないと思います。クリスチャン的に言えば、イエスは、
「信仰に殉じた聖職者」
といえるかと思います。しかし、非クリスチャンの私にとって、イエスは、
「権威や利権、偏見による縛りから人々を解放しようとした愛と勇気ある偉人」
と考えた方がよく理解できますし、その凄さ、死に至るまでの無念さまでも想像できます。
 2000年の時を経た現代でもイエスの啓示は普遍性をもって強く生きていると感じます。

出典;詳説世界史研究 詳説世界史図録 パッション(2004年映画/メル・ギブソン)