〇独ソ戦開始
そもそもドイツはなぜソ連に侵攻したのでしょうか。ヒトラーは豊富な資源と農地を有するロシアの空間をゲルマン民族の生き残りに不可欠な生存圏と位置づけ、豊かな穀倉地帯のウクライナを含む広大なロシアの大地を大ドイツ帝国の植民地にして、ゲルマン人を入植させ、同化できないスラブ人をシベリアへ移住させるか、奴隷として使役するという東方植民地建設計画を持っていました。独ソ不可侵条約を永遠に遵守するつもりなど最初からありませんでした。ドイツは大戦が没発してからソ連以外の外国からの食料輸入が途絶え、ドイツの食料供給源をソ連に握られている状態だったので、ソ連への侵攻はこの状態を解消し、東方植民地建設計画を実行に移すための軍事行動でした。
この計画は官僚や研究者、高級軍人らによって綿密に立案されていました。戦争遂行のために食料確保は必要不可欠であり、ウクライナの大地はその生命線でもありました。そのため、ドイツ食料農業省の官僚ヘルベルト・バッケは「飢餓計画」という構想を立案します。占領したソ連から食料を収奪し、住民を飢え死にさせてでも、ドイツ国民、なかんずく国防軍の将兵に充分な食料を与えるとするものです。そうした政策をとれば現地住民から3000万人の餓死者が出ると彼は推計し、「戦争三年目に、国防軍全体がロシアからの食料で養われるようになった場合にのみ、本大戦は継続しうる。」と結論付け、「ロシア人は、何世紀もの間、貧困、飢え、節約に耐えてきている。その胃袋は伸縮自在なのだから、間違った同情は不要だ。」とロシア人に対して非情な評価を下しています。
ドイツのソ連侵攻はバルト海から黒海へ至る3000kmにわたる戦線で、ドイツは総兵力330万人をもっていっせいに攻撃を開始、準備不足のソ連軍は敗走し、ドイツ軍の占領地域は拡大していきました。ここで、一気にモスクワを攻略する案とキエフを占領する案があり、ヒトラーはキエフ進軍を命じました。クリミア半島やウクライナ東部のドニェツク工業地帯、炭田地帯の奪取、ドイツが石油を依存しているルーマニアの油田地帯の確保、ソ連に石油を供給するコーカサス(グルジア・アゼルバイジャンなど)の油田地帯の攻略など、戦争経済上の目標を優先するためにその拠点としてのキエフを抑えたかったからです。1941年9月、ウクライナ方面の防衛にあたっていたソ連の南西正面軍は包囲されましたが、スターリンは投降を許さず死守を命じたため潰滅しました。このキエフ会戦までに失われたソ連の兵力は45万2720名。ドイツ軍も無傷なはずはなく、戦死、戦傷者数あわせて10万人といわれ、一般住民の被害者数はわかりませんが、相当の被害があったと思われます。原爆で一瞬にして30万人の命が失われた広島とは違って、1か月に及ぶ戦闘の結果ですが、核兵器1発分以上の犠牲者を出した激しい戦闘がキエフを中心に行われたのでした。冒頭のキエフの男性の言葉が重みをもって蘇ります。
もう一つの事例を挙げれば、米英軍とドイツ軍との間で激しい戦闘が行われたノルマディ上陸作戦の兵員数が双方合わせて20万人なので、キエフ会戦がどれだけ惨たらしい戦いだったか、戦場となったキエフの街がどのように破壊されたか想像しがたいくらいです。
そして、この戦闘に勝利したドイツは、ウクライナやベラルーシを占領し、「飢餓計画」を実施するためにあらゆるものを収奪する植民地統治の機関として、ウクライナのキエフ周辺部にウクライナ国家弁務官区、ベラルーシのミンスク周辺にオストラント国家弁務官区を設置しました。1941年から1942年にかけて、ドイツ将兵らが消費した占領下ソ連の穀物は700万トン以上にのぼり、ウクライナだけでも1700万頭の牛、2000万頭の豚、2700万頭の羊とヤギ、1億羽のニワトリが徴発されました。これだけの膨大な食料が奪われた結果、占領下の住民にはわずかな配給しか回ってこなかったのは言うまでもありません。また、食糧だけでなく、原料や労働力も徴発の対象とされました。1944年6月までに、くず鉄約200万トン、鉄鉱石110万トン、マンガン鉱66万トン、クローム鉱1万4000トンが、ドイツ本国へ運び出され、1944年6月までに、280万人の住民が強制労働者として、ドイツに送りこまれました。
キエフ会戦とほぼ同じ時期に、ドイツ軍はレニングラードを包囲します。ここでは占領せず包囲するだけで、300万人の住民もろとも餓死させる計画でした。その期間は900日にも及び、スターリンも住民避難を認めなかったため、約100万人が犠牲になったと言われていますが正確な数字は確定していないとのことです。まさに絶滅戦争たるゆえんです。