終戦の日に思う②

〇独ソ戦へ至る経緯
 まず、独ソ戦に至る経緯を振り返ります。1933年、ドイツで45歳のヒトラーが首相に指名され、その後約一年で権力を集中させて独裁体制を築き、総統という地位につきます。大衆に絶大な人気があり、政敵である国内の共産党を排除していく一方で、第一次世界大戦の敗北から立ち直れないドイツ経済を公共事業によって見事によみがえらせ、大衆の支持を盤石なものにしていきました。
 一方、ソ連では、1924年、レーニン死後の後継者争いに勝利したスターリンが46歳で最高指導者となり、1928年から5か年計画によってソ連経済の工業化を進めていきました。自らの権力を保持するために国内の政敵をことごとく粛清していき、特に軍部の粛清はすさまじく、1937年から38年にわたって、3万4301人の将校が逮捕、追放され、そのうち2万2705名は銃殺、行方不明になっています。高級将校ほど犠牲者数が多いため、軍部の弱体化は深刻で、独ソ戦開始時のソ連軍大敗の原因といわれているほどです。
 そのソ連とドイツが1939年8月23日、独ソ不可侵条約を締結しました。相互の軍事衝突を避けるための平和条約です。共産党を敵視するナチスドイツがソ連と平和条約を締結したことに世界は驚きました。また、ファシストと手を組むソ連の姿は、世界の共産主義者たちを大いに失望させました。そして、満州国境のノモンハンでソ連軍と激しい戦闘を繰り広げている最中だった日本も驚愕しました。ソ連をけん制するために1936年に日独防共協定を結んでいたドイツがソ連と不可侵条約を締結する意味を図りかね、当時の平沼騏一郎内閣は「欧州情勢は複雑怪奇なり」という言葉を残して総辞職してしまいました。以後日本もソ連に対して強硬策は取らなくなり、1941年に日ソ不可侵条約を結ぶにいたります。
 独ソ不可侵条約は、ドイツにとっては西部方面のフランスなどへ侵攻するために東部方面のソ連との間で緊張関係が生じないようする措置であり、一方のソ連も、相次ぐ粛清によって軍事力が低下していることをスターリン自ら自覚していたので、軍事力回復までは敵を作らないでおくという方針があったようです。しかし、この独ソ不可侵条約には二つの重要な秘密協定が含まれていました。一つは独ソによるポーランド分割であり、もう一つはソ連によるバルト三国占領の承認です。このことが第二次世界大戦への布石となりました。

 1939年9月1日、ドイツ軍はポーランドへ侵攻します。独ソ不可侵条約締結から8日後のことでした。この時、ポーランドと軍事同盟を結んでいた英仏はドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦が勃発しました。9月17日にはソ連軍もポーランドに侵攻し、秘密協定通りにポーランドは独ソによって分割され、ソ連はバルト三国(エストニア・ラトビア・リトアニア)へも侵攻し、翌年8月には併合してしまいます。東部の憂いのないドイツは1940年4月、オランダ、ベルギー、ルクセンブルク、デンマーク、ノルウェー、フランスなどに侵攻、連合軍を撃破していきます。さらにイギリス上陸を目指してイギリス軍との空中戦を行いましたが敗れ、イギリスへの進撃は止まりました。イギリス占領は実現できなかったものの、ヨーロッパ西部をほぼ占領したドイツの矛先はここから東部方面に向けられることになります。ここまでのドイツ軍のめざましい進撃に、当時の日本も「バスに乗り遅れるな」との言葉が流行りだし、勝ち馬に乗ろうとしてドイツとの同盟を結ぶ動きが強まり、この年の9月に日独伊三国同盟が締結されました。
 翌1941年、ドイツはユーゴスラビアやギリシャなどバルカン半島にも侵攻をはじめ、6月22日、ついにドイツは独ソ不可侵条約を破棄してソ連に侵攻し、独ソ戦が勃発しました。それは独ソ不可侵条約を結んでからわずか1年10か月後のことでした。