グラスルーツと草莽崛起

「草の根運動」と「草莽崛起」
 「平和願う草の根グループえんどうまめ」という名称は設立者の石川さんが名付けました。この中の「草の根」という言葉は、英語のgrassroots に由来しています。
 グラスルーツ(Grassroots)とは、grass(草)とroots (根)という言葉を合わせたもので、「草の根」と訳されています。これは、大衆の一人一人、組織に属さない一般民衆のことを意味します。「草の根運動」など、日本でも普及しているこの言葉はアメリカが発祥でした。「草の根民主主義」という言葉を名付けたのは、アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領でした。彼が大統領に就任した1933年は世界恐慌の影響で、多数の失業者があふれていて、彼は公共事業を進めていくニューディール政策によって失業対策を行いました。特に、テネシー川流域開発では、ダム建設によって、貧困に喘ぐ地域の雇用を生み出し、その水力発電の安価な電力はその後の地域の経済発展を刺激しました。公共事業による安価な電力供給に反発する民間の電力会社の圧力に屈しなかったことで、この事業の成功は「草の根民主主義」と称賛され、その後の民衆による草の根運動は一人歩きをして現在に至っています。アメリカ建国の精神にその源流を持つとも言われ、陽気で正義を好むアメリカ人の明るい民主主義運動がイメージされます。
 日本でも、民衆を「草」に喩えた言葉があります。それが「草莽」(そうもう)という言葉で、在野の人々を意味します。幕末の日本では、これに「崛起」(くっき)という言葉を合わせて草莽崛起(そうもうくっき)という言葉が、吉田松陰によって唱えられました。これは、普通の庶民が大きく変化する特別な意味を持ち、維新という革命に身を投じよという使命を帯びたものとなります。この場合の草莽とは、武士階級以外の農民や商人たちがそれにあたり、身分を超えて、立ち上がる(崛起する)ということを意味し、彼らは奇兵隊や諸隊を形成し、倒幕に大きな貢献を果たします。この「草莽」たちの中から、伊藤博文や山縣有朋ら明治政府の要人たちが輩出されました。しかし、多くの草莽の志士達は倒幕後には用済みとなり、恩賞をもらうこともなく解散させられ、不満を持って抵抗すれば弾圧されてその姿を消していきます
 草莽の志士達が、「民主化」のために武器を取って戦ったことは、革命の一つであり、同じ「草」でも、アメリカの草の根運動とは似て非なるものです。日本の明治維新は歴史の必然だったとは思います。しかし、この過程で議会という武力によらない政策決定の場を作り、憲法という社会規範を作りました。草莽崛起による討幕のような手法は、もう過去のものとなっています。

アメリカの暴動は「草莽崛起」なのか


 複雑化した現代社会では、一つの社会現象を起こす人々が、革命運動としての「草」なのか、穏健な民主主義運動の「草」なのか、判別することは難しいことかもしれません。コロナ禍中のアメリカで起こった反人種差別暴動が、幕末の「草莽崛起」なのか、伝統的な「草の根運動」なのかが気になります。武器こそ取ってはいませんが、放火や略奪などの破壊行為が大規模に行われました。これが単なるフラストレーション(イライラした感情)の捌け口ならば、その場限りのもので終わるでしょう。しかし、これがある政治的意図を持って煽動され、やがて武器を取ることになれば、草莽崛起の民衆による革命行動に繋がります。幕末の日本でも、外国人や政敵を襲撃するテロ行為が多発し、治安が悪化しました。高杉晋作や伊藤博文、井上薫といった当時「草莽」だった人たちも、品川の英国公使館を放火し、焼き払っています。この事実から、彼らがかなり「危ない」人たちだったといえます。彼らは薩摩を介して外国から調達した大量の武器を手にし、幕府軍を圧倒する勢力に成長しました。
 庶民が立ち上がる時には、国の形をも変えてしまう力になります。アメリカの暴動も庶民が武器を手にして政権を打倒する「革命」に至ることがあるでしょうか。私は暴動によるのではなく、「草の根運動」による穏健な政変であってほしいと思います。

草の根運動とメディアの乖離

 アメリカで暴動を起こした人々は、現体制に不満を持っているので、現在行われている大統領選挙では、トランプ大統領を支持することはなく、バイデン氏を支持します。一方で、トランプ大統領を支持する人たちも多く存在します。トランプ支持者たちの「サイレントマジョリティー」(沈黙の多数派)が行ったデモは、略奪もなく、整然かつ明るい雰囲気で政治的主張を展開する光景が見られ、アメリカ民主主義の「草の根運動」の伝統がまだ息づいているように思います。どちらの陣営を支持するにしても、本来は穏健な政治運動によって政権が決まることを大多数の国民は望んでいることと思います。
 アメリカ大統領選挙では、すでに、バイデン氏の当確が発表され、日本のメディアも好意的に報道し、菅総理大臣も祝辞を送っています。一方のトランプ大統領は選挙に不正があったとして、敗北を認めず、法廷闘争を展開しています。アメリカ、日本のメディアはすでにバイデン新大統領を前提に報道し、不正選挙の訴えは取り上げません。何がどのように不正とされているのかを伝えるのもメディアの使命だと思うのですが、最初から「敗者の悪あがき」と決めつけて取るに足らないこととしています。しかし、大統領選挙の最終的な結果はまだ出ていないのが現実です。
 次の動画は、”stop the steal!”(選挙を盗むな)と不正選挙に抗議する人たちのデモの様子です。反トランプのグループも現れますが、暴力沙汰にはならず、通常のデモの範囲だと思います。日本のNHKは、「1万人以上のデモ」と報じたようですが、実際は10万単位の大規模なものです。NHKもわかっているはずなのに、何に忖度しているのか事実を矮小化して伝えています。この様子を見ると、選挙結果が決まった後の悪あがきとはとても思えません。
 バイデン氏は同じ民主党のオバマ氏が大統領になった時の得票数をすでに上回ったとされています。しかし、オバマ大統領選出の熱気以上の魅力を彼に感じることができないアメリカの草の根の人々は「不正」の気配を感じているものと思います。


 
「大手メディアが大統領を決めるのではない」
と一国の大統領が発言しなくてはならないほど、メディアの力は強大です。だからこそ、事実を報道してもらわなければならないのですが、サイレントマジョリティーのデモを見る限り、選挙結果は決まったとしているメディアの報道と現状とでは大きな乖離があり、メディアが無理に大衆を一方向へと導こうとしている不自然さを感じます。トランプが好きか嫌いかとか、共和党か民主党か、右か左かという思想の問題ではありません。偏向した報道には、メディアのスポンサーとして桁外れの資金力を持つ人たちの意向が反映されているのだと思います。その狙いが何かはわかりませんが、それらの人たちが「草の根」の対極にある人たちであり、「民主主義」とは両立しない勢力だということは確かだと思います。

同じことが繰り返されなければよいが
 同じようなことが、2000年の大統領選挙でもありました。共和党のジョージ・w・ブッシュと民主党のアル・ゴアとの選挙戦です。接戦の末、ブッシュが当選したのですが、この時も不正選挙が疑われ、アル・ゴアはなかなか敗北宣言を出しませんでした。このようにすっきりしない選挙で、たいして魅力を感じない人物が大統領になった後の世界はろくなものになりませんでした。同時多発テロ、アフガン戦争、イラク戦争と、世界は混迷していきました。まるで、そのようなことによって利益を得る人たちが、彼らに都合の良い大統領を選んだかのように。共和党員でありながら、ジョージ・w・ブッシュがいち早くバイデンに祝辞を送っているのは二人に共通する何かがあるのかもしれません。今回は、日米のメディアが一斉に同じ方向を向いているいかがわしさが加わりますので特に気になります。どちらの候補者が大統領になっても楽観できないと思います。杞憂であってくれたらと思いますが。

穏健な社会を望む「草の根」
 草の根民主主義運動にとっては、事実を伝える報道が不可欠です。政治的に意図する報道によって、民衆がいつの間にか、望まない方向へと誘導されることがあってはなりません。選挙の結果次第で、また暴動が起き、それによって政変が実現したとしても、何かに扇動されて過激行動を実行した多くの人々には何の利益もなく、用済みとなれば切り捨てられることでしょう。その先にある社会が穏健なものになるとは思えません。
 アメリカ大統領選挙など、誰が選ばれても同じだと斜に構えることはやめて、その帰結に向けての動きやその後に起きることを注目していきたいと思います。
 大統領選挙はすでに終わったとしている日本のメディアが信頼できない今、インターネットによって海外の情報にアクセスすることは、「真実」に近づく手段となります。日本での英語の早期教育に懐疑的だった私でも、こんな時のために、それも必要かもしれないと思うようになっています。

八景乃二人