原発事故被曝者支援

「えんどうまめ」は1989年(平成元年)から、チェルノブイリ被曝者への支援を続けています。

事故後大量の放射能を浴びてしまったみなさんの苦しみは終わりがありません。私たち被爆国日本人には、そのことがよくわかります。

悲しみに寄り添うことで、被曝者のみなさんに希望を感じてほしいと願っています。

どうぞご支援ください。

チェルノブイリ被曝児支援活動

1989年から1994年(平成6年)まで

 1986年4月26日、当時のソ連ウクライナで起こった「チェルノブイリ原発事故」で多くの子どもたちが被曝しました。

「えんどうまめ」はお母さんたちの会でしたので、被曝した子どもたちのために力になりたいと願いしました。でも、ソ連時代は国交がなかったために、何もできませんでした。ニュースで知る被曝の実態に胸を痛めているだけでした。

1989年になって、日本からいくつかの団体が被曝した子どもたちの支援を始めました。私たちは、「チェルノブイリ救援募金東京」と「ジュノーの会」(広島県府中市)を通して間接的ですが、ベラルーシとウクライナの子どもたちへの支援ができるようになりました。特にジュ ノーの会が招かれたウクライナの医師に宇部で講演していただくことができ、身近な支援を模索できるようになりました。

1992年(平成4年)、ウクライナから留学生として宇部に来られたイーゴリ・ベリツキー教授との出会いを得て、直接キエフの状況を聞くことができ、ベリツキー先生の友人のニコライ・マクハ医師の病院が必要とする医薬品(250万円分)をベリツキー先生の帰国時に託しました。

1993年(平成5年)、マクハ先生の勤めるキエフ第2子ども病院や病児の親御さんたちから、支援の要望が私たちの元に届きました。そこでチェルノブイリ被曝児支援のための会を作るために準備を始めました。

1994年(平成6年)4月、チェルノブイリの子どもたちの幸せを願う仲間「ドゥルージバ 」を結成しました。

チェルノブイリの子どもたちの幸せを願う仲間「ドゥルージバ」(1994年~2006年)

「ドゥルージバ」とは、ウクライナ語で「友情」という意味です。してあげるという上からの支援ではなく、同じ被ばく国同士の友情を育みながら、現地の医師に被曝した子どもたちを救っていただきたいと、キエフの3つの子ども病院(キエフ第2こどもびょ病院・第9子ども病院・小児感染症病院)が必要としている医薬品を毎年1万ドル以上送り続けました。

支援を続けるために、お互いが直接出会うことを大切にしてきました。

毎年のようにキエフから医師や子どもたちを日本に招き、各地で講演や交流コンサートなどを行いました。

中でも 、キエフ29番音楽学校で学ぶ子どもたちが日本公演のために結成した「キエフナイチンゲール合唱団」は3回(2000年・2006年・2009年)来日し、素晴らしいコンサートと交流でウクライナ親善大使の役目を果たしてくれました。

医薬品支援についても直接届け、キエフの実情を見て報告することを大切にしてきました。

1999年までは、現地に医薬品がなかったため、宇部薬剤師会のご協力を得て現地が必要とする医薬品を購入して届けました。

2000年からは、現地で購入することができるようになり、日本の3倍の医薬品が購入できるため、現地購入し3つの病院に届けました。

ゼムリャキ支援活動(2006年~現在)

事故から14年過ぎ、支援する病院の患児に被曝した子どもたちは少なくなっていました。3つの子ども病院への国家予算もつくようになり、私たちの支援の意味を考えるようになっていた2000年(平成12年)、「ジュノーの会」を通してチェルノブイリ被曝者互助団体「ゼムリャキ」と出会いました。

「ゼムリャキ」とはウクライナ語で同郷の人という意味です。

チェルノブイリ原発のためにできた町プリピャチ市(当時人口約4万人)は、事故後死の町になりました。当時ソ連でしたので、人々は国家から新しい住居を与えられました。2.5万人の人が、120キロ離れたキエフ市のデスニャンスキー地区に住むことになりました。人々は見知らぬ街で、プリピャチ市から移住した人に会うと「ゼムリャキ!」と言って抱き合って近況を語り合ったそうです 。プリピャチで文化会館職員をしていたタマーラさんが中心になり身元捜しを始めました。次第にプリピャチの住人の消息がわかるようになました。

1987年11月、心身ともに大変な状況にある人たちのための互助団体「ゼムリャキ」が結成されました。ジュノーの会は「ゼムリャキ」に対して、甲状腺検査や治療代薬代などを支援して、多くの被曝者のみなさんの希望になっていました。

「ドゥルージバ」は会議を重ね、チェルノブイリ20周年の2006年(平成18年)で子ども病院の支援を終え、「ゼムリャキ」を通して、事故で被曝した人と被曝2世3世の支援を続けていくことを決めました。

「ゼムリャキ」は現在国家からチェルノブイリ障碍者団体という認定を受けています。団体と認定されているた めに家賃の減額がありますが、その代わりに光熱費などの事務所維持経費や代表と会計の給与を支出する責務が生じます。

「ゼムリャキ」の目的は問題を抱えている人たちへの互助にあります。

はじめは世界中から支援を得ていた「ゼムリャキ」も、時が経つと支援をする団体も減り、2000年当時は「ジュノーの会」と「えんどうまめ」とドイツの個人とだけになっていました。団体を維持できない状況が目前に迫っていましたので、2006年「ドゥルージバ」を解散して「えんどうまめ」で「ゼムリャキ」支援を決めた私たちは、団体の維持を主目的に、余裕があれば医薬品代の寄付をと考えました。

現在「ゼムリャキ」は、「えんどうまめ」の他「日本ヨガ療法学会」(事務所改装)やドイツの 団体の支援(医薬品)を受けて、希望につながる活動を展開しています。

「えんどうまめ」は2006年から年間1万ドルの支援を続けています。

支援金の使途
  1. 事務所維持のための家賃・光熱費・通信費他
  2. 団体維持のための給与(代表・会計・事務2名・マッサージ師・運転手)
  3. 医薬品
  4. SOSプログラム(緊急支援を要する貧困家庭への支援)
  5. 障碍児支援
  6. 寡婦支援
  7. 子どもたちのための文化イベント参加賞など

支援金の贈呈風景

左から、通訳江川さん、チェルノブイリ博物館副館長コロレフスカさん、河村建夫衆議院議員、ゼムリャキ代表タマーラさん、えんどうまめ代表石川

マッサージ専用スペース(事務所の写真はこちら

どうぞ「ゼムリャキ」支援「ゼムリャキ・ナディア(希望)」へのご寄付をお願いします。

ゆうちょ銀行口座 15500-30097001 ヘイワヲネガウクサノネグループエンドウマメ
郵便振替口座 01340-7-45141 平和を願う草の根グループ「えんどうまめ」

キエフナイチンゲール合唱団(2000年~現在)

キエフ・ナイチンゲール合唱団は、ウクライナの首都キエフの第29音楽学校の生徒さんたちによって、構成された合唱団です。チェルノブイリの惨禍のあったウクライナから、同じ放射能被曝国である日本へ、友情の橋渡しとしての役割を果たしています。

ナイチンゲールとは、英語でウグイスの意味で、ヨーロッパで最も美しい鳴き声を持つ西洋ウグイスにちなんで名付けられました。

これまで、2000年、2006年、2009年に来日し、日本各地でコンサートを行っています。コンサートだけではなく、文化交流も積極的に行っています。

詳しくは、こちらの動画をご覧ください。

指導者紹介

モロズ・マリヤ先生


キエフ第29音楽学校の教師。1950年生まれ。音楽の指導は厳しいですが、生徒への愛情の深い先生です。2000年の来日以来、とても日本が気に入ってくださいました。日本料理と温泉が大好きです。夫のペトロさんはチェルノブイリ原発事故後に除染作業員として働き被曝、2009年には彼も合唱団に随行してスピーチも行いました。


コロソク・ワジーム先生

 
ピアニスト。1968年生まれ。ウクライナ国営ラジオ放送に勤務しながら第29音楽学校で音楽を教えています。彼のピアノは子供たちへの愛情を感じさせる優しさがあり、子どもたちは彼を信頼して歌に集中しています。ベジタリアンで、日本料理がとてもお好きです。彼も温泉が大好きでいつも長風呂です。