2018年4月22日、森本まちこさんが「5歳の記憶」というタイトルで、5歳の時の満州からの引揚時の体験を語ってくださいました。その内容は以前投稿したことがあります。それからも「満州」という言葉が頭から離れず、幼かった森本さんがなぜあのような過酷な体験をしなければならなかったのかを考えるようになりました。そもそも満州とは何か。なぜ日本はあのような悲惨な戦争を始めたのか。戦争に至る過程を知るために、高校生レベルの参考書を読むことから始まって、関連する書籍を読んだり、ネットで調べたりしました。
◇満州国
◇命がけの引揚げ
近現代の歴史をさかのぼってみると、満州が明治維新のころから終戦に至るまでつねに日本の国防上重要な地域であったことがわかります。日清戦争で獲得した満州の権益を三国干渉によって奪われたものの、日露戦争勝利によって取り返し、ロシアの南下を食い止めました。さらに満州事変によってその権益を拡大しました。満州は日本にとって鉄道の敷設権やその周辺の鉱山の採掘権、また大豆をはじめとする食物の生産地として重要な地域でした。しかし、満州が日本によって支配されることは国際的に支持されず、当時の国際連盟では満州国が否認されたため、日本は連盟を脱退し、その後、日中戦争、そしてアメリカとの戦争にまで拡大してしまいました。
国力が大きく違いすぎるアメリカとの戦争を始めた時点で、地獄のような結末は見えていたと思います。日本の主要都市は空爆によって焦土と化し、二発の原爆を投下され、ぼろぼろになって大日本帝国は世界地図から消え去りました。敗戦によって主権を失った日本には、中国などの外地に残る邦人を帰還させる力はまったく残っていませんでした。日本本土も極端に食料が不足しており、外地からの引揚者の増加は食糧事情をさらに悪化させます。占領下の政府は、外地の邦人はそのまま現地に土着させるという、事実上の棄民政策を進める方針でした。このような状況でしたから、外地からの引揚は国家による庇護のない非常に心細いものであり、文字通り命がけでした。
1945年8月9日、ソ連が満州へ侵攻、森本さん家族が住んでいた会社の社宅にも危険が迫っていたので、本社のあるフシンへ向かって歩いて避難を始めました。その途中で匪賊に襲われ、命からがらフシンへたどり着いたものの、そこではソ連兵と中国共産党の八路軍が支配していて、会社の施設のようなところに監禁されたということでした。そして、お父様の決断で、夜中に脱出し、途中で親切な中国人に助けられたということでした。もし、脱出していなかったら共産党支配下で、満足な食料も得られず病気になったかもしれず、お父様の決断の決断は正しかったと言えます。
◇フシンから葫蘆島(ころ島)
◇コロ島から佐世保港までの地図
◇蒋介石の以徳報怨(徳を以て怨みに報いよ)
無防備な外地の日本人たちは、匪賊たちの格好の標的とされます。満州へ侵攻してきたソ連兵だけでなく、大陸や半島経由で帰国しようとする過程で現地の人たちからも襲われました。これは、極限状態での人間の本能に係るものではないかと思います。日本でも、かつて、落ち武者狩りというものがありました。古くは源平合戦に敗れた平家の落人を農民たちが襲って身ぐるみはがすということがありました。豊臣秀吉に敗れた明智光秀も敗走する途中で農民による落ち武者狩りにあって命を落としています。絶対に抵抗できない無防備な人間に対して残虐になるか、慈愛をもって接するかは人々の本性が露になる場面だと思います。幸いにも、森本さんのご家族がもうダメかと思われたときに救ってくれたのは現地の中国人でした。「5歳の記憶」に次の一節があります。
”外は暗く、がやがやと話し合う中国人たちに囲まれるようにして連れて行かれたのは、明るく灯をともされた大きな家であった。
大人(タイジン)と人々は呼んでいたようだ。村の村長のような人かもしれなかった。この家で意外にも私たちは歓待されたのである。
真黄色の粟のご飯、オンドルのきいた温かい部屋。覚えているのはそれだけだが、父が片言の中国語で大人と穏やかに話すのを聞きながらぐっすりと眠った。
数年の後、母に、
「なぜあの時あの中国人たちはやさしかったのかしら」
と聞くと、
「どこの国にもあたたかい人はいるものだよ。だけどこれ以上日本人を虐待してはならないとお達しがあったのかもしれないねえ。」
と言った。”
「これ以上日本人を虐待してはならないとお達し」があったとすれば、それを発令した人物は当時そこにいた日本人の命の恩人だといえます。そして、その人物こそが日中戦争の敵国であった中華民国の総統、蒋介石でした。
中華民国総統蒋介石
この「お達し」について、放送大学の家近亮子客員教授著の「現代東アジアの政治と社会」(放送大学教材)から抜粋して紹介します。
《1945年8月15日正午(中国時間)、蒋介石は「抗戦に勝利し、全国の軍人、民衆及び世界の人々に告げる書」を発し、重慶の中央放送局において自らこれを読み上げ、全国、全世界に向けラジオ放送した。その内容の特徴は、以下のようである。
①日中戦争を中国の「抗戦(防衛線)」と定義した上で、「正義は必ず強権に勝つ」と述べ、8年間の抗日戦の正当性を強調したこと。
②キリスト教の教義から「汝の敵を愛せよ」、中国の伝統思想から「旧悪を念(おも)わず」「人に善を為せ」の一節を引き、中国人民に対して「我々は報復してはならず、ましてや敵国の無辜の人民に汚辱を加えてはならない」と説いたこと。
③戦争の責任及び「敵」を「日本の横暴非道な武力をもちいる軍閥のみ」に限定し、「一貫して、日本人民を敵とせず」という方針を貫こうとしたこと。
④今後中国は民主主義国家としての道を「邁進する」ことを強調したこと。
である。
この方針の下、蒋介石は実際に200万人にのぼる日本軍捕虜と民間人を中国船で日本に送り返すことを決定し、実行した。この演説は一般に「以徳報怨」の演説といわれているが、蒋介石自身は「以徳報怨」という言葉はまったく使っておらず、それは日本のマスコミの独自の解釈に基づく造語であった。日本の新聞がこの演説の内容を紹介したのは9月5日になってからであるが(大阪『毎日新聞』)、日本人に大きな感動を与え、蒋介石評価を一気に高める役割を果たした。》
歴史にはいろんな見方があるように、蒋介石という人物にもいろんな評価ができます。日中戦争を戦った相手なので、悪い見方はいくらでもできます。蒋介石の客観的な評価は歴史家にゆだねたいと思います。しかし、それとは別次元で人の感情による歴史認識もあると思います。私個人にとって蒋介石は、妹の遺骨を背負って極寒の大陸を命がけで歩いた5歳の日本人少女を救ってくれた恩人です。蒋介石の演説がなかったら、森本さんとの素晴らしい出会いもなかったかもしれないと思うと感謝の気持ちしかありません。
「以徳報怨」演説を知って、私は蒋介石という人物に興味を持つようになりました。どうして日本は蒋介石と戦わなければならなかったのか。日本への留学経験があり、多くの日本の友人を持つ蒋介石が何を思いながら戦ってきたのか。
日中戦争は、日清、日露戦争や満州事変と異なり、その目的がよくわかりません。お互いに宣戦布告すらしないままズルズルと長引いて行き、それが米英を巻き込む世界大戦へと拡大していきました。その実相について知ることは、現在の混沌とした世相を読む判断の助けになると思います。日中戦争と蒋介石について、今後も調べていきたいと思います。