夢(言の葉随想)

私には3人の娘が居る。皆私の近くに住み何時でも会うことが出来る。一番遠くの三女でさえ長府で、二女は歩いて五分位。長女は「いっしょに居てあげる」等と言って同居である。

長女は身体に障害を持ち、手足が不自由で全介護を受けて生活している。知能は正常で左手に握ったパソコンのスイッチを操作して、何とか覚えた字を並べ日記をつけ詩を書いている。児童図書の店の情報誌に毎月詩を一編ずつ載せて頂いて二十年近くになる。行動範囲の広くない彼女は、身のまわりの事、外出して見た花や小さな生きもの等が詩の材料となる。

以前、ボランティアとして関わってくれた学生への思いも、多く詩になっている。いつも近くにいる私の言葉や、行動も、詩に書かれ驚かされることがある。皆の好物のおはぎを手作りしたり、魚の手作りハンバーグを作った時等も詩となって、情報誌に載せられハラハラさせられている。

リハビリは欠かさないけれど、年令と共に体の機能は低下し、痛みや痺れが常にある様になった。さすってやったり、体を動かしてやりながら、私の胸も痛む日々が続いている。

こんな娘と生きる私には夢がある。実際には実現できない夢かもしれないけれど。

二女と三女が幼い頃、カトリック系の幼稚園に通い、その土曜学校に長女も連れて行った。そしてシスターたちとの出合いがあった。

優しいほほ笑みと共に、長女に勉強等教えてくださるシスターたち。私は父兄対象の宗教講座に出席した。そんな時間は、娘の障害という悩みを持った私の心を、癒してくれた。親子で信仰に心ひかれる一時期があった。

また、テレビの市民大学という番組で、曽野綾子さんが「現在に生きる聖書」という題でお話をされたのを二人で見て、その中で聖地巡礼の人達の中に車いすの巡礼者が一緒にバチカンに旅し、教皇様に祝福されている場面に「私も」と娘が言っていた。フランスのルルドでは、マリア様に導かれた少女が見つけ、不治の病の人達を救ったというルルドの泉に手を浸し、病気平癒を祈っている巡礼者に、あこがれを抱いて見ている様だった。娘の身体で巡礼の旅は無理だと決めつけ、又信仰にも心揺らぐ思いもあって、長い間行動しなかった。

娘も、今は冷めている様だけれど、心の奥に、小さな思いを持ち続けているのではと、思えてならない。私は、そんな娘の思いに、足並みを揃えてやりたいと思う様になった。そして、考えた末、最近からまた聖書の勉強を始めた。車いすを押しての巡礼の旅、それも三人の娘と一緒を望みつつ、夢で終わるかもしれない。巡礼の旅はともかく、障害と痛みと共に生きる娘の心に、道しるべとなるともしびが、灯ることを願い続けたい。多くの人に支えられ、家族の助けもあり、夢中で生き、傘寿も近くなった私の願いであり、夢の一つとなっている。