平成28年:東日本大震災:仮設住宅や被災地のインタビューをまとめました。

寺内第一仮設住宅のサロン眞こころの松野さんにお話を伺いました。

5月21日(水)、南相馬市の寺内第一仮設住宅のサロン眞こころにて、お世話をされている松野さんに、現在の仮設住宅や被災地のことなど、お話を聞くことができました。
お忙しい中、およそ1時間ほどのお時間をとっていただき、中身の濃い内容でしたので、ここにご紹介します。
長くなりますので、5つのパートに分けています。すべて動画に収録していますが、語り言葉では正確にその意味をお伝えできない部分があったり、誤解を招きかねないこともありますので、すべてを文字化し、動画はパート1と2にアップし、3から5は文字のみとします。

南相馬市鹿島区寺内第一仮設住宅・眞こころ


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眞こころ遠景(赤いマークが眞こころです。黄色いマークが福島第一原発。)
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パート1:仮設住宅で暮らしている方々の様子

パート1では、仮設住宅で暮らしている方々の様子などをお話してくださっています。松野さんの家族のお話もしてくださいました。松野さんの話し方は大変明快で、聞いているだけでもこちらも元気が出てきます。

南相馬市では、原発からの距離が20km圏内、20~30km圏、30km圏外と円で区切られて補償されることの問題点を指摘されていたのが印象的でした。

以下、ま=松野さん、は=春木ということで以下の会話を進めていきます。また、解説が必要な部分は(注)をつけて、最後に説明を付しますのでよろしくご参照ください。

は「それでは、今日は眞こころの松野さんにようやくお会いできたので、ちょっとお話しを伺いたいと思います。宇部のえんどうまめというグループのホームページを作っている春木と申します。よろしくお願いします。南相馬の除染の仕事でしばらく働かせていただいてます。小高地区というところでですね、線量はそんなに高くはないのですが、環境省がやっているということで、頑張って稼ぎたいと思っているんですけども、なんといっても住民の方が優先なので、そういうことに気を使ってやっています。では、いくつかここの応急仮設住宅についてお尋ねしたいのですけども、ここの地区では何人くらいの方が利用されているのですか?」

ま「当初87世帯入ってました。」

は「それは津波で家を壊された人たちですか?」

ま「津波だけではなくて、放射線の避難の方たちもです。」

は「原子力災害による避難の方たち、小高地区の方たちもいらっしゃるということですね。」

ま「はい。」

は「87世帯・・・多いですね。」

ま「いや、多いところは150とか200とかいうところもあるので・・・、200くらいだと把握しきれないですね。このくらいが一番いい感じですね。これ以上少なくても多くても人数の関係でやりづらくなると思います。」

は「それで今は何世帯くらいですか?」

ま「今は再建されて出て行った方もいるので、70世帯です。」

は「まだ70世帯ですか。」

ま「まだ代替地が渡されてないんですよ。公営住宅が入居可能になったのが、4月20日くらいですので。」

は「公営住宅が新しくできたんですね。」

ま「3年すぎてやっとできたんです。」

は「3年かかります?ちょっとおそいような気がするのですが。」

ま「普通はかからないと思います。」

は「予算がつかなかったのでしょうか。」

ま「予算というよりも、土地の買収に時間がかかったのではないかと思います。昔から守ってきた土地なので手放さない人たちが多いということで。」

は「それでもまだ70世帯がこちらに住んでいらっしゃるということですね。若い人もいらっしゃるのですか?」

ま「ここは年配の方が中心なんです。震災の年(2011年)6月に交付されたものなのですけど、70歳以上の方がいることが条件で、あと、子どもが3人以上とか、小さい子どもがいるとか。そういう条件が厳しくてなかなか入れなかったんです。」

は「松野さんのお宅もその条件に入っていたんですか?」

ま「入ってなかったんですけど、義理の父親が肺がんの末期ということで、早く入りたかったんですけど、本人も仮設はやく当たんないかなと話をしていたのですけど、当たったのが8月の中すぎだったんですね。それまで体も持たなかったので、借り上げ住宅を探して、なかなか見つからなかったんですけど、山のほうに住むことになったんですよ。海で育った人なので、山で暮らすのが苦痛になってしまって。」

は「それまではどこに住んでらっしゃったんですか?」

ま「それまでは治療のため、義理の父親は仙台に、私たちは相馬の借り上げ住宅を借りて住んでました。姉のうちに避難して、借り上げ住宅を探して、やっとそこに入ったのが、5月の初めでしたね。」

は「それはくじで?」

ま「ちがいます。自分で探さなくちゃいけないんです。仮設を待っている時間もないし、親戚のうちに身を寄せるにしても肩身が狭いということもありますし。息子と娘は、原発が爆発したので、北海道に避難させたんですよ。」

は「娘さんはまだ小さかったのですか?」

ま「あの時は中学2年生でした。今は高校3年生です。」

は「まだ北海道に?」

ま「いえ、一学期終わったときに、連れ戻しました。義理の父親の病状がだんだん悪くなってきて・・・。」

は「今、お父様は?」

ま「亡くなりました。一年たちました。ただ、もともと大家族で住んでいたので、その中で見送りたいという思いがあったので・・・。震災の前の年に末期がんと言われて、明日どうなるかも、3ヵ月後にどうなるかも、1年後にどうなるかも言えないといわれたんですよね。それで、うちから出してあげたいという思いがあって、もともと大家族で住んでいたので、借り上げ住宅を借りながら、中古の住宅を探したんです。ようやく見つけて、落ち着ける場所を探して、子どもたちと一緒に住んで、そこから送り出すという。」

は「今は、子どもさんたちと一緒に住んで、皆さんお元気ですか?」

ま「元気でいます。」

は「子どもさんたちは普通に学校に通ってらっしゃって、放射線については問題ないということですね。」

ま「はい、でも20km圏内という線引きもおかしいんですよね。海のほうなんて、0.0・・μSV(マイクロシーベルト)で。」

は「0.1μSV以下(注1)なんですね。だけど、入ってはいけないということになっている。」

ま「だから円で線引きするというのはどうかなと。本当に線量が高いところは福島県内にも他にあるのに、そこは見られてなくて、円で区切るというのは。今後もし原発がどうかなったときに、問題になると思います。20km、30km、それ以外というところも南相馬市にはあったので。」

は「なんだか、分断されているみたいですね。」

ま「そう、だから南相馬はぐちゃぐちゃになって。感情的な問題や補償の問題もありますし。」

は「そうですよね。」

ま「同じ津波で流されても20km圏内、30km圏内という違いがありますし。」

は「原発事故がなければ、そのへんも平等にということもあるのでしょうけど。原発事故があったからややこしいことになってしまったといういことですね。」

ま「そうです。30km圏内までは補償はありますが、それ以外はないんです。ただ、南相馬市に住んでましたということがついてまわる・・・マイナスだけがついてまわるんですよ。」

は「それこそ風評被害ですよね。」

ま「完全な風評被害です。だから、市単位とか、行政区単位でちゃんとしてもらわないと。」

は「今でも市民の中ではそのような問題があるんですね。」

ま「気持ちの中ではありますね。補償は20km圏内しかないですけど、だから30km圏外がどうだということではなくて、それ以外の人たちが何もしてもらっていないという感情的な問題が残ってます。」

(注1) 政府の放射線基準では、0.23マイクロシーベルト/h以下で安全であるとされています。ここでは0.1マイクロシーベルト/h以下ですから、放射線に関しては問題ないといえます。

パート2:和みサロンでの過ごし方

眞こころの松野さんのお話の続きです。被災者の方に心を寄せる松野さんの誠実な人となりが伝わってきます。震災から3年が過ぎましたが、仮設住宅を出た後のケアが心配との話をされています。また、手芸部の皆さんのお話もしてくださいました。

は「松野さんはずっとこの眞こころでお世話をされているんですね。」

ま「そうです。震災の年8月の13日にオープンしました。」

は「おもにどんなことをされてきましたか?」

ま「皆さんにお茶を出したり、相談事を聞いたりとか。」

は「和みカフェですね。」

ま「和みサロンですね。カフェっていうのは使えないんですよ。保健所関係で。」

は「ボランティアの方がけっこう来られてますね。それで世間話したり。」

ま「そうですね。あとは、体操したり。午後三時になったら体操して。カラオケの中にプログラムが入ってまして、福祉系の大学で監修されたものがプログラムされていて、それをビデオで流すんです。」

は「それは他のいろんな仮設住宅でやってるんですか?」

ま「それは眞こころだけで、個人的に契約してやってます。それで10~15分くらい体操して、そのあとにストレス解消として、そのままカラオケをします。そして、いい感じで歌が終わったら帰るということになっています。」

は「震災から3年たちまして、今特に困ったことや問題なことはありますか?」

ま「ここを出たときに、心のケアをする人がいるかどうかです。」

は「家族がいればなんとかなるのでしょうけど。」

ま「90くらいの方になると、今まで自分の地元でつながっている人はだれもいなくなるというのが問題かなと。」

は「今そういう高齢の方はどうされていますか?」

ま「ここに来てお茶を飲んでます。」

は「仮設住宅で孤独死が最近増えていると車のラジオで聞いたのですが、そういったことはないですか?」

ま「ここではないです。ここではないですが、別の場所では一人暮らしの方もけっこう多いので、その人が倒れてしまって、孤独死という名前がついてしまっています。孤独死というのは一人で寂しく死んでいったというイメージですけど、多いのは心筋梗塞とか脳梗塞などの突然死です。ただ、一人暮らしだから孤独死という名前がついてしまう。」

は「ここの皆さんの健康状態はどうでしょう?」

ま「ここに来ている人たちは大丈夫です。散歩もしてますし。孤独死という話が出てきたときに、隣の物音を聞いてっていう話をして、みんな隣に耳を傾けて、大丈夫?って声を掛け合うようにしてるので、気持ちの健康状態もいいと思います。体が悪くなったら誰かがすぐに動いてくれるという状態です。」

は「ここは眞こころのようなコミュニティーもあるし、みんながつながっていて、それが一番大切なことですね。」

ま「だから、これからぜんぜん別のところに行ったときに、どうするんだろうという心配が私の中に大きくなっています。実際に、サロンに顔を出していたおばあちゃんが、家を建てて喜んで行ったまではいいんだけど、話すこと、笑うことがなくなってしまったので、そのまま痴呆になってしまって、そのまま体が弱って亡くなってしまったということもあります。みんなそのことを心配していると思います。ここを出られた方が知らないところに行ってしまったので、寂しくてこちらに顔を出すということもあります。車の運転ができる方はいいのですが、できない方に対して何かないかなと。」

は「福祉の職員の方が回ってこられるとかは?」

ま「回ってこられます。社協さんが一生懸命やってくれてます。ただ、それは時間が決まっています。ここは無休でやっていたのですけど、日曜を休みにしたんですよ。少しずつ休みを増やしていこうかなと思っています。というのは、ここがあたりまえにあるんじゃないというのをわからないと、ここがなくなったとき、自分が対応しきれなくなっちゃうと思うので。」

は「自立ということも必要ということですね。」

ま「プラスの場面とマイナスの場面があるんだなと思いますね。」

は「宇部市のえんどうまめというグループはチェルノブイリの被爆者への支援活動をを行ってきたのですけど、このたび日本国内での支援をしようということで、お米を送ったりとかしてます。それで、このまえ、石井啓一郎さんというバイオリニストのコンサートをしたときに、眞こころから手作りの刺繍などを送っていただいて、それがとてもよかったらしいのですが、あのような手作りのものを作るというのは、日常的にここでされているのですか?」

ま「そうです。75~80歳くらいの方が、縫い物をして、それを90くらいのおばあちゃんが裏返しにしたりとか、あとは袋詰めとかもおじいちゃんおばあちゃんにわざわざやってもらうんですよ。そうすると自分の仕事があるという気持ちがあるので。はじめは何もやってもらわなかったんですけど、自分たちも何かがしたいという気持ちが前向きになってきたので、やってもらったら、今日も仕事があったと明るくなって、ただやっているというのではなくて、自分も役に立っているという気持ちになって。」

は「それは売ったりしてるんですか?」

ま「売ったりはしてないんですよ。売るというよりも、支援したいとおっしゃってくださる方に送って、それでそちらで何をしても自由だよということで、売るとか一個いくらだということではなくて、200個お願いと言われれば200個送って、バザーしてもらった売上金を振り込んでもらったりとか、お菓子を買って送ってもらったりとか、布を買って送ってもらったりとか、あとは布を買ってくださいと指定して送ってくれたりだとか、そのように使わせていただいてます。だからいくらじゃだめだとかいうことはまったくなくて、無料で配ってもらってもいいですし、ただこういう活動を仮設でもやってるんですということをわかってもらって、ホームページのアドレスを入れたので、それを見てもらえたらいいなと。」

は「ホームページ更新してますか?」

ま「前のものが残ってるんですよね。Wix眞こころと入れてください。」


パート3:復興が難しい現状について

松野さんのお話の続きです。
被災者の心のケアのために始めたサロンだったので、1年くらいで終わりと思っていたのだけど、終わることができないという状況をお話や、松野さんご自身も新築の家を流されてしまったお話をしてくださいました。
また、えんどうまめから送られているお米についてもお話してくださっています。

は「特に西日本の方になるとこちらのことは忘れてるっていうか落ち着いてるでしょっていう感じなんですよね。」

ま「まだ代替地が確保されてなくて、遅いんですよ、先祖から守ってきた土地を手放せないっていう文化がまだ残ってて。買収が進まないっていうこともあって、その整地をして、早いところは来月代替地を渡すってことなんだけど、仮引渡しはしてあるんですよね。正式な引渡しではなくて、いくらですっていう金額はまだ出てないんですよ。」

は「しばらくは今の状態が続くっていうことですね。」

ま「続きますね。あと、遅い人は来年といわれてます、土地の引渡しが。あと2年くらいはこの状態なのかなと思ってしまってます。はじめたときは心の傷をちょっとでも減らそうと思ってはじめたので、1年もやらないつもりだったんですよね。サロンていうのは1年もいらないだろうという気持ちでやったのですけど、これが終わらなくなっちゃって、明日からやめますってできないんですよ。みんながこれなくなったらという不安から、最近は何も言ってないのに、いつまでやってくれるのって言われるから、やめるって誰もいってないのに、心配でって言われて。自分たちが出るまではいてもらいたいっていうふうに言われているし、ここがあるうちは、家ができても行きたくないと言われて、これが足かせになってないのかなって思いながら考えさせられます。」

は「人間ってやっぱりつながりで生きているものですから。」

ま「新しいところに行きながら、こちらにも来て、こっちにも知り合いつくって少しずつ動いてもらいたいと言うんですけど、それがうまくいかないんですよね。」

は「ほとんどの方は南相馬市内?」

ま「そうですね、もともとは市内の方。」

は「車がないと出て来れない。」

ま「ただ、年配者は運転ができないので。」

は「すぐそこにバスの停留所がありますが、あれは一日に何本くらい出てるんですか?」

ま「けっこう来てますよ。ただバス乗る習慣もないんですよね。いつも送り迎えという感じで。年配者は手押し車を押しながら来るので。」

ま「仮設住宅はほんとに狭いところに3人でいるっていうのが普通ですよね。夫婦二人ならいい、というか何とか落ち着けるんですけど。3人となると、狭いどころの話ではなく、人の気配が常にしているっていうのは、たぶんかなりのストレスだと思います。」

は「そうですね、仮設だったら隣近所の音も聞こえますし。」

ま「聞こえます。赤ちゃんなんて夜中関係なく泣くじゃないですか。気になる人は気になるだろうなと思います。私も仮設に入っていたというか、相馬に中古の家を買ったんですよ。で、もともと南相馬じゃないですか。私は出身が相馬なんですね。それで義理の父親が、もう帰る気がないんじゃないかと心配してしまって、仮設を申し込んで、週に一回ずっと泊まっていたんですね。こっちに帰るんだよという意思表示をしないと、精神的な不安ばかりで病気が進んでしまうので、お義父さんにこちらに帰るんだよという意思表示をするためだけに借りてしまったんですけど、そこに寝てると、隣の隣とか、その隣の音とか、聞こえてきますね。」

は「今は相馬に住んでいらっしゃるんですね。」

ま「うちの実家は1年3ヶ月で流されたんですけど、たった1年3ヶ月。」

は「相馬の実家、海の近くだったんですか。」

ま「そうです。もともと住んでいたところから引っ越して1年3ヶ月だったんですけど。」

は「新築だったんですね。」

ま「そうです。もともと住んでいた家もまったくなくて。ローソンの電柱に船が立てかかっていた状態で、それも大型船ですよ、普通の船じゃなくて。あれを見てほしかったですね。」

は「いやいや、そこまでは。」

ま「途中、道路走ってて何で船がここにあるんだろうっていう。きれいに立っているんです。電柱壊れないかなって思うくらいまっすぐ立っているんです。」

は「そういうのはたくさんあったんでしょうね。」

ま「6号線の鹿島区の田んぼの中に、船がずっとあったので、そこまで船が来ました。震災後一ヶ月以内の風景を見たらたぶん・・・」

は「僕もネットなんかに上がっているものを見たんですけど、写真で見るのと現実に見るのとでは違うでしょうね。」

ま「違いますし、あのときの声っていうのはまったく違う声だと思います。年配の人が戦争の後みたいだったと言ってましたね。焼け野原と津波のあとは変わらないと。」

は「宇部の人に何かありますか?」

ま「いつもありがとうございます。お米はおいしくいただいてます。こちらだけではなくて、あまったものをとっておいて、別な仮設のほうにもやってるんですよ。おいしいって言ってくれてます。

パート4:原発の産業への影響について

眞こころの松野さんのお話の続きです。
漁師のご主人の苦労話もされました。試験操業で魚のセシウム濃度を測っていますが、セシウムだけでいいのだろうかと疑問が残るところです。
また、原発事故直後の不安もお話され、当時の緊迫感が伝わってきました。

ま「主人が漁師なんで、船が残ってるんです。船を置いていけない。」

は「今は漁をされているんですか?」

ま「今は、試験操業中です。」

は「試験操業ってどういうことですか?」

ま「何度か魚を取ってきて、それを測って、セシウム濃度が出なかったら、それを3度繰り返し、大丈夫だったら市場に出回るんですよ。今回もちりめん、こうなごっていう魚が大丈夫だったので全国に出してます。」

は「松川浦の人に聞いたのですけど、相馬漁港からも週二回の試験操業をしてセシウム濃度を測っているということでしたが、本格操業まではしばらくかかりそうですか。」

ま「風評被害が収まるまでは本格操業しても魚はあまっちゃいます。ほんとに全国でも有数の水揚げがあったところなので、一気に獲られたらあまりますよね。」

は「セシウムは出てるんですか?」

ま「たまにドンと出て、えっ?となっちゃうんです。」

は「困ったものですね。」

ま「魚って回遊してるので、絶対かっていうと、固体検査できないじゃないですか。固体検査できる機械を導入しないと、絶対とはいえないですよね。例えば米の様に、ベルトコンベヤーで流して、でも魚は動くし無理だと思うんですけど。ひとつひとつ検査されてないんですよ。この漁場でとったこの魚、っていう検査ではどこまで信じていいかわからないと感じる事が風評被害ですから。魚をミンチにして測ったらその魚はもとに戻らないじゃないですか。固体検査、そのままの形で検査できるシステムがないと、ピッピッっとできるようなものがなければ・・」

は「ミンチにして機械に入れなければ測れないんですね。単位もベクレルで、シーベルトじゃない。大変ですね。」

ま「そうですよ。検査するにも時間がかかるんで、翌日まで出荷できないんですよね。」

は「鮮度が落ちますね。」

ま「落ちます。機械を当てただけで測れるものができないかぎり、風評被害というのはとれないんじゃないですかね。」

は「セシウムだけではないし。」

ま「そうなんですよ。それが不思議なんですよ。なんでセシウムだけなんだと。」

は「ストロンチウムは骨に蓄積されるというし。」

ま「けっこう大きな会合があったときに聞いたんですよ。セシウムだけ測って大丈夫なんですかと。ほかのものはいいんですかと。そしたら、基準がセシウムだから、セシウムがそんなじゃなければ他もそんなじゃないっていう見解を聞かされて、答えになってないよねと思って。ちがうでしょって、しかも危険度がちがうでしょって。セシウムはいつかは出ますけど、ストロンチウムはたまりますよね。何を言ってるんだろうと思ったんですけど、調べて連絡しますって言われたんですけど連絡来ないんですよね。」

は「調べるのは難しいんじゃないですか。」

ま「そうみたいですね。測るのがセシウムだけでいいのかっていうことを誰も言わないのがなんでかなと。」

は「そこまで触れると・・・ややこしいことになるからとか、本当に安全を考えたらそこまでしなくちゃいけないと思います。」

ま「子供に対しては大事なので。私は気にせず食べてますけど、子供のものはやっぱり産地見ますものね。福島県産を食べないんじゃなくて、福島県産でも海のほうで作ったものは食べるんですよ。もともとスピーディー出したときも避けてるんですよ。海岸沿いはまったくないんです。そこらへんで作ったものは気にしないで食べてます。ただ、近県の方も怖いですね。茨城も近場のほうはいやだなと思ったり、宮城も角田辺はとか。福島の山の向こうは大丈夫と、日本海側は大丈夫と。」

は「日本海側は大丈夫なんですか。」

ま「大丈夫、でも向こうは向こうで、中国の汚染水が怖いと思ったりしますよね。あっちの方が怖いと思ったりするくらい。」

は「山口県の場合はPM2.5ですね。放射能より怖いかもしれませんね。」

は「ご主人は仕事ができないということですが補償はあるんですか。」

ま「あります。福島県は漁業補償をしてもらってます。ただ、当初は体をもてあましてしまって、すごいことになりました。主人は会社員として別の仕事に就いたんですよ。先はどうなるかわからないと。船がエンジンかけるたびにどこか壊れているんですよ。修理代に一回20万30万と飛んでいくと、修理代がおいつかなくて。貝がついちゃって船が動かなくなるんですよ。動かさないと。働かないと体がダメになるし・・。考えに考えて漁業にもどったんですけど。仕事がないということが苦痛で体がなまって。一時期自暴自棄になりましたね。今はなんとかなりましたが、あのころは、精神的な病気になるんだなと思いましたね。こんなところにすまなくちゃいけないとか、プライバシーがないとか、大変でした。私はどこでも寝れるんですけど。なので、北海道には子供たちだけではなくて自分もと思ったのですけど、行けなくて。そのうち、原発が水素爆発ではなくて本格的な爆発をしたらどうしようかと」

は「実際爆発しましたよね。」

ま「そうですね。でもあんなのじゃなくてもっと大きな爆発があると思って。あの時は半径50kmにいたんですよ。200km以上離れなくてはだめだという話だったので、だから子供たちは北海道になんとか出そうと思って。福島空港から子供たちを出したんですけど。」

パート5:放射線被曝の影響の不安

眞こころの松野さんのお話の続きです。
福島のお母さんたちの不安についてもお話してくださいました。

は「福島空港から北海道まで飛行機が出てたんですか?」

ま「出てました。臨時便なんですけど。」

は「脱出したって感じですね。」

ま「脱出したって感じです。ほんとに人がごったがえしていたって言ってました。」

は「北海道には親戚を頼って?」

ま「うち姉の旦那さんの親がいたんです。向こうでよくしてもらいました。滝川の市役所のほうが全面的に・・・」

は「滝川ってどこですか?」

ま「旭川の近くです。市役所が全面的にやってくれたので困ることはなかったし。やってよかったと思ったんですけど、仙台空港が使えるまでは行けない。やっと行けたのが6月でしたか。」

ま「原発が爆発したときに、子供たちだけでも助かってもらいたいという気持ちだったので、主人のことも不安定だったし、お義父さんの病気もあったので、残らなくちゃいけないよなあっていう選択をしてしまったのですけど、子供たちには申し訳ないことをしたなっていう気持ちもあります。まだ、中学校2年生と小学校6年生だったですよ。卒業式にも入学式にも出てあげられてないんですよ。やっとこのあいだ、高校の入学式に出ました。そのほかはぜんぜん・・・。その前の運動会もおばあちゃんがなくなったので出れなくて。なにもしてあげられてないっていう・・・。よくやったねってみんなに言われましたけど、やらざるをえなかったという事情もあったので。」

は「こちらの天気予報をテレビで見たとき、明日の天気はこうこうってやったあと、放射線濃度をやるんですよね。」

ま「双葉地区はまた別にやるんです。はじめは双葉地域以外をやってそのあと双葉地域のところをやるんです。」

は「双葉は人住んでるんですか?」

ま「住んでないですよ。」

は「ラジオ放送でも、放射線についての知識を報じたりしてますね。」

ま「誰も知らないことじゃないですか。誰も知らないことのデータが今後に生かされるということしかないんじゃないですか。福島原発は40年が寿命だったんだけど、超えていたじゃないですか。超えてすぐ事故です。」

は「あれ、ちゃんと廃炉しておけばよかったんだけど。」

ま「廃炉の技術はあるんですか?」

は「あるんですかねえ。どんどん再開しようとしていますけど、廃炉のことまで考えないとねえ。津波だけだったら、津波だけでもいけないけど、余分なことまで起きてしまいましたよね。」

ま「福島のお母さんたちの不安というのは・・このへんは津波のほうが大きかったので、頭の中では津波のほうが大きいと思うんですよね。津波がまったく関係ない人たちは、それだけ(原子力災害)が災害なので、それに集中していると思いますよ。放射線が怖いんで。美味しんぼもそうですけど。」

は「鼻血が出たっていう。」

ま「でも、実際聞くんですよ。」

は「僕もこちらにきて3回くらい出ました。空気が乾燥しているのかなって思いましたけど。」

ま「それが放射線の影響かっていうと、わかんないですよね。わかんないことが絶対そうだっていえないじゃないですか。20年たたないとわかんないですね。20年たってまとまるかっていうと、まとまらないと思いますけど。」

は「因果関係がわかんない。」

ま「結論がわかんないんですよ。チェルノブイリの時も研究者がたくさんいて、それがいかされているかが、今回疑問になりましたよね。あんだけ騒いだのに結局なんだったんだろうと。」

は「学者の中には年間100msvまでは大丈夫だという人もいますし。」

ま「海外の基準はもっとゆるいところもあってですね、オーストラリアでも実際線量が高いそうですけど。フェイスブックなどで見たんですけど、避難してもそっちの方が線量が高いとか。世界には場所によっては高いところもあるんだと。」

は「自然放射線の高いところはありますね。」

ま「あります。飛行機に乗っている人はどうなんだとかいう話にもなってしまうんで。何がなんだかわかんないですよね。」

ま「気持ちを前向きにしておけば病気に勝てそうな気もするし。じっさい第一原発行っている方が、内部被ばくの数値があがらないという人もいるらしくて、同じところにいても内部被爆量が違うとか。」

は「それはどうしてですかね。」

ま「免疫力ですかね。」

は「排毒というか、吸い込んでも出せる人と、溜め込んでしまう人とがいて。」

ま「こわいこわいと思ってやってるのと、だいじょうぶだと思ってやっているのとでは違うのではと。気持ちだけは前向きに。放射線の受け方がちがうというのは、あるみたいですよ。」

は「人と人とのつながりとか・・・」

ま「なんにもないと、仮設から出ても病気になるっていう。」

は「ご主人がなんとか立ち直ったのも奥さんが支えてきたから・・・」

ま「今は開き直っているみたいなので、すっかり忘れているみたいですね。あのとき、あんなだったんだけどなと思ってもすっかり忘れて。」

は「孤独だったらお酒に走ったりとか・・」

ま「福島民報で連載されていたんですけど、原発関係で働いていた人が、自分のやっていたことは何だったのだろうと、アルコール依存症になったりとかあったみたいですね。」

は「今日は貴重はお話ありがとうございました。」