平成24年:オレクサンドル・スィロタさん招聘事業報告

オレクサンドル・スィロタさん

(4月15日 宇部ときわ湖畔ユースホステルにて:通訳はオレナさん)

 えんどうまめでは、3月10日から17日の1週間、キエフから「プリピャチドットコム」の編集長でありチェルノブイリ被曝者互助団体「ゼムリャキ」の広報担当でもあるオレクサンドル・スィロタさん(通称サーシャ)をお招きし、福島の被災者のみなさんと交流し、東京・福島・南相馬・宇部・京都でチェルノブイリ26年についての講演会を行いました。

以下ご報告いたします。

3月10日(土)「東京のカトリックボランティアセンター」と「きらきら星ネットワーク」のみなさんのお世話で、四谷の聖イグナチオ教会ヨゼフホールで講演会を行いました。福島からの避難者のみなさんや「えんどうまめ」の支援者のみなさんも聞きに来てくださり、プリピャチで被曝したサーシャさんの証言に耳を傾けました。

1986年4月26日、原子力の危険性をまったく知らされていなかった原発の街プリピャチ市の人たちは、事故が明けた朝、爆発後火事が起こっている原発を物珍しげに眺めていたそうです。子どもだったサーシャさんにとって、ヘリコプターや戦車を見るのは面白かったそうです。このように屋内避難の指示などもまったくなく、不幸にも晴天だったので、人々は太陽をいっぱい浴びるために外で過ごして大量の放射能を浴びてしまいました。事故後丸一日経った27日未明にはひそかにソ連全土から2000台のバスが集められていましたが、プリピャチ市民に事故の深刻さを知らされることはなかったそうです。避難勧告が出されたのは27日14時。その時も3日間の避難だという嘘を聞かされて、大切なものを家に置いたままでバスに乗り込んだそうです。サーシャさんは、ごく初期の対策がきちんとしていたら、これほど被曝することは避けられただろうと話してくれました。

移住地のキエフでは、チェルノブイリの子どもたちは免疫力が落ちるために授業も半日で、ビタミンをとるためにジュースなども特別に与えられ、そのために逆にいじめられたそうです。サーシャさんは10年以上、チェルノブイリの子どもたちに義務付けられている毎年の検査で異常が発見され、なんども入退院を繰り返してきたそうです。でもいっこうに元気にならないので、ここ10年は検査を受けず、自分で健康になるように心を前向きにして生きているとのことでした。

被曝を心配している福島のみなさんには、食べ物は検査されたものを選んで食べること、免疫を上げる食べ物や暮らし方を工夫すること、前向きに明るく生きることをアドバイスされていました。

チェルノブイリから26年たち、ウクライナでは放射能がほとんどなくなった場所も増えているそうです。でも、日本は始まったばかりです。今工事車両のタイヤに着いた放射能を含んだ土やチリが、車の除染がなされないために拡散することを心配しておられました。私たちが福島を通ったとき、サーシャさんがキエフから持ってきた放射能探知機が警告音を鳴らし続けている場所がありました。サーシャさんはそこで暮らしている子どもたちの健康を心配していました。

11日日曜日は東日本大震災から1年目の日でした。四谷のニコラバレという修道院ホールで福島からの避難者のみなさんのためのバザーや交流会が「きらきら星ネットワーク」主催で行われ、そこにお招きいただいて、福島のみなさんと交流させていただきました。有意義な出会いとなりました。

「えんどうまめ」も「被災地・避難者と支援者をつなぐ人の輪ネットワーク(略称人の輪ネット)」の代表能登春男さんあきこさん夫妻と出会い、「子どもたちを放射能から守る福島ネットワーク(略称子ども福島)」の代表佐藤幸子さんをご紹介いただきました。

午後は、ホームページでサーシャさんの訪日を知った渋谷のアップリンクという映画館から、丁度「プリピャチ」という映画を上映中なので、サーシャさんに話して欲しいという依頼があり、観客のみなさんにお話しを聞いていただきました。みなさんは映画に出ていた原発労働者の消息を心配されていました。サーシャさんは帰国後早速調べてお知らせしますと約束されました。

12日は福島に移動し、「子ども福島」の佐藤さんを訪ねて、「子ども福島」が生まれた経緯を伺いました。佐藤さんは有機栽培農家だったこともあって、原発事故後食べるものが汚染されていく状況を何とかせずにいられず抗議行動を始めたとのことです。お嬢さんや孫さんたちと山形県の米沢市に避難して、福島に通いながら、福島の子どもたちの保養などの問題に取り組んでおられます。心からつながっていきたいと思います。

その後、伊達市の社会福祉協議会を訪ね、ボランティアコーディネーターの佐藤惠子さんと地域福祉係りの阿部ゆかりさんにお話しを聞きました。除染が始まるけれど子どもたちの健康に大きな不安を感じているとのことでした。本音は伊達市から子どもたちを全員避難させたい思いだとのことでした。生活があるので、そういうこともできず、さらに保証金がらみで地域がギクシャクしてきていることを憂いておられました。

夜は伊達郡霊山町の「みさとユースホステル」に泊まり、そこでマネージャーの清野秀明さんとお母さんに原発事故のあとの様子などを伺いました。事故後避難する人たちを無料で泊めて差し上げたそうです。ほんとうに大変な時期をみなさんが支え合って乗り越えていかれてことがよくわかりました。みさとYHの外は放射能が高く、被災地が線引きされ、道を隔てて保証金をもらえるところともらえないところがあることで、村の人間関係までもが壊されていくことを嘆いておられました。自給していたお米も作ることができず、果樹も食べることができなくなったそうです。果樹は木の皮をはぐことで補助金がもらえるそうです。皮をはがれた桃の木に目印のピンクのリボンが揺れて悲しい情景でした。お金で解決できないことがたくさんあります。被災されたみなさんが受けた物心両面の傷を癒すことができるのは何でしょうか?せめて、被災者のみなさんの置かれている状況に心を寄せて、祈り続けたいと思います。きっと何かできることがあるはずですから。

13日は相馬市を経由して南相馬市に入りました。南相馬市では、この度福島でのコーディネートをしてくださった「カトリックボランティアセンター」の畠中ちあきシスターと仲間のみなさんが出迎えてくださいました。午前中角川原仮設住宅の集会所でみなさんにサーシャさんのお話を聞いていただきました。チェルノブイリ後の健康状態について尋ねられ、サーシャさんは自分の周りには健康な人は一人もいないと言われました。でも、一番肝心なことは免疫力を高めることだと、エイズの例を出して説明されました。

お昼を仮設の商店街の双葉食堂でいただきました。避難してきた豊田えいこさんが始めたラーメン屋さんです。ばらばらになった故郷の人たちがこのお店で再会し情報交換し支え合っているとのことで、とっても活気のあるお店でした。

午後は寺内第一仮設住宅集会所を訪問しました。ここで毎日開かれている和みサロン「眞こころ」があります。その日は集まったみなさんに「忘れえぬもの」というチェルノブイリ事故当時のドキュメンタリーを見ていただき、サーシャさんの話を聞いていただきました。この集会所は福島県が建てており、運営は日本財団の支援を受けて「サイドバイサイドインターナショナル」が行っており、日々の運営は「やっぺ南相馬」のスタッフさんがしておられます。

責任者の松野美紀子さんご自身も、避難区域に住んでいて津波で家を失われました。一時期お子さんたちを北海道に避難させておられたそうです。でも、和みサロンの運営を任されたこともあって、お子さんを呼び戻し、ご両親と3世代で中古住宅を買って再出発されたそうです。いろいろな不安を抱えながらも仮設に住む皆さんか孤立しないように心配りされていました。飲料水に不安があることから、このサロンのお茶はペットボトルの水で入れておられます。千葉の団体からお水カンパをいただいているそうです。「えんどうまめ」ではお茶菓子などサロンに集うみなさんがほっとするものを提供して寄り添い続けたいと思っています。

その後、サーシャさんは宮腰吉郎さんのコーディネートで、放射能防護服をつけて原発立ち入り禁止区域に入りました。汚染車両が除染せずに出て行っていることに、ショックをうけておられました。

14日は南相馬市の原町地区在住の作家佐々木孝さんを訪問しました。佐々木さんは「南相馬はもう住んでも大丈夫」との考えでおられました。サーシャさんは小さい子どもたちにとってまだ安全とは言えないと思うと言われていました。佐々木さんは故郷を追われて生きるストレスを訴えたかったのだと思います。この原発事故では生き方に関わる複雑な問題が生じています。補償などできない問題です。認知症の奥さんの介護をしながら毎日ブログで状況を全国に発信しておられました。

放射能のリスクは高齢者は低いかもしれません。でも高齢者のお世話をする若い人たちの被曝が心配です。チェルノブイリでも、都市に移住させられた農民のおじいちゃんおばあちゃんたちが、作物を作って暮らしたいと汚染地に戻って住んでいました。でも、若い人が住むことは禁止されていました。学校も仕事場も病院も店もありませんので、住むことは不可能です。おじいちゃんたちのために週に数回移動販売車が回ってきていました。日本のような管理された(保護された?)国では、危険は極力回避しようとします。でも、お金が関わると、危険を過小評価する傾向があります。避難の問題はなかなか答えがないと感じました。各人が誰にも責任を取ってもらえないという前提に立って判断するしかないのでしょう。

13時から南相馬市の桜井勝延市長を表敬訪問しました。南相馬の窮状をユーチューブで世界中に発信し、世界中に震災と原発事故後の実情を知らせた方です。今も各国から注目され毎日海外の訪問者があるそうです。「自分は南相馬を世界に知ってもらい応援してもらうためにがんばっている」と言われていました。自然エネルギーを進め、世界中の人とつながることを目標にしておられるとのこと。尊敬する宮澤賢治のように風や雲や波を感じて生きたいと話されました。

南相馬を後にし、無人となった飯舘村を通過しました。放射能の値が高いことに驚きました。町村合併をせず農業に誇りを持ってがんばっていた村の田んぼを見ながらほんとうに悲しくなりました。日本中で寄り添い続けなければと感じました。

夜は福島市の松木町カトリック教会の信者さんたちに、サーシャさんの話を聞いていただきました。サーシャさんは「当時のキエフは200マイクロシ-ベルトの放射能があり、現在の日本は10マイクロシーベルトで、これは26年後のプリピャチと同じ。チェルノブイリで放出された猛毒なストロンチウムやアメリチウムは福島では出ていない。福島はこれ以上悪くなることはないので希望を持って欲しい。放射能は目に見えないが、あることを忘れないで、手洗いや外で食べないように気をつけて」と話されました。松木町教会では仮設住宅の集会所でのお茶会ボランティアを続けて喜ばれているとのことでした。

15日は新幹線で一路山口県に移動しました。途中富士山が見えたのはサーシャさんにとって大きな贈り物でした。夜は宇部ときわ湖畔ユースホステルで講演会をしていただきました。サーシャさんの招聘事業の共催者である松岡整形外科の松岡彰先生はじめスタッフのみなさんがたくさん聞きに来られました。長い間チェルノブイリ支援を続けている「えんどうまめ」のメンバーにとって、ゼムリャキの発起人であるリュボフ・スィロタさんの息子さんのサーシャさんと出会いお話しを聞けることは感慨深いことでした。

16日は岩国の姫野敦子さんも同行してくださって宮島を観光し、広島平和公園の慰霊碑や原爆ドーム前で祈り、被爆者で語り部でもある岡田恵美子さんと田中稔子さんに広島原爆資料館を案内していただきました。また、広島平和センターのスティーブン・リーパー理事長ともお話しし、サーシャさんが日本で開催を希望しているプリピャチの写真展についても賛同いただくことができました。16日の夜は「京都から東日本大地震被災者を支援する会」主催の講演会でお話しをきいていただきました。翌17日は、今回の通訳のウクライナ人留学生オレーナ・シガルさんが成田空港まで見送ってくださり、サーシャさんは充実した1週間の日本滞在を無事終え帰国されました。

この招聘事業のために50万円ものご寄付をくださいました松岡整形外科の松岡彰先生に厚くお礼申し上げます。また各地でお世話くださいました皆さんのおかげでチェルノブイリと福島と日本の支援者を結ぶ一歩を踏み出すことができました。ほんとうにありがとうございました。

チェルノブイリ汚染地に通って映像を撮っている宮腰吉郎さんには福島を車で案内していただき大変お世話になりました。通訳のオレーナさんも、流暢な日本語でわかりやすく通訳してくださってありがとうございました。東京・福島の講演会や交流会、仮設住宅での交流をコーディネートしてくださった「カトリック東京ボランティアセンター」の岩田さんと畠中さんのおかげで、たくさんの被災者のみなさんと出会うことができました。ありがとうございました。「京都から東日本大地震被災者を支援する会」の滝澤寛さんにもお世話になりました。ありがとうございました。

「えんどうまめ」はこれからもどんなにささやかでも被災されたみなさんと心を合わせてできることをさせていただきたいと願っています。どうぞご支援くださいますようお願いいたします。

平成24年4月14日
平和を願う草の根グループ「えんどうまめ」代表石川悦子